人生初めての入院・手術編 |
6月8日金曜日 |
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朝10時半過ぎに外来に到着。入院手続きを済ませ、病室へ。私以外はおばちゃんやおばあさんばかり。6人部屋の廊下側のベッド。病院傍の交差点に一番近い部屋で、ダンプなんかの騒音が凄い。しばらくして看護婦さんがやってきて、術後に打つ抗生物質の検査をしながら、体温・血圧、朝食はお粥かパンかとか、便通のことなど質問された。朝食はお粥にしてもらう。手術後に着るために、浴衣(寝巻)か、前開きのネグリジェのようなもの、それから尿の管を通すことになると思うので、バスタオルを2枚用意するよう言われる。手術日の付き添いのことを尋ねられ、母が付き添うつもりだと言うと、「よかったです。やはり、家族の方が付き添ってくだされば安心です」夜間の付き添いはいいのかどうか分からなかったので、ホッとした。
外来診察が終わるころ、外来へ呼ばれ、しこりの具合を診てもらった。1週間くらい前から咳が出ていて、むせて夜中に目が覚めたりしていたので、先生に言うと、うがい薬を出してくれることになった。入院計画書には手術日から5日間点滴とある。今まで点滴なんて、風邪の時に1回しただけなのに、5日間も…。『全身麻酔』の文字。分かっていたけど、やはり不安。どうか、目が覚めますように…。
午後からは何もすることがないし、翌日、翌々日は土日だから外泊することにした。
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6月10日日曜日 |
うがい薬のおかげで、咳も止まった。
18時頃、外泊から戻った。荷物を整理して、パジャマに着替えた。送ってきてくれた母は「病人みたいになるんじゃないよ」と言って1時間後に帰った。しばらくして、職場の人がお見舞いに来てくれたが、まだ1時間ぐらいしかたっていないのに、いきなり病人扱いされているようで、変な感じ。更に1時間後、同室のおばちゃんからメロンをもらって食べる。「飲み物は寝るまで、食べ物は夕食まで」と言われていたので、もう絶食しているつもりだったが、誘惑にまけ食べてしまった。というより、瞬間的に忘れてしまった感じが強い。
看護婦さんに用意したネグリジェ風のパジャマとバスタオルを渡す。
21時、就寝。暑くて暑くて寝付けず、交差点で停止・発信する車(特にダンプ)の音にも悩まされ、熟睡もできなかった。
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6月11日月曜日 |
手術当日。眠気と空腹が襲ってくる。
8時半過ぎ、母がやってくる。
9時頃、主治医の先生(K先生)がやってくる。「緊張していますか?」と問われて、なんとなく「う〜ん、少し…」と答えたけども、本当は眠くてしょうがなかった。しばらくボーッとしているうちに眠ってしまった。
11時頃から点滴開始。
13時頃、看護婦さんにトイレへ言っておくように促され、念をいれて2回赴く。
このHPの患者さんのレポートを読んで、手術室までは歩いて行くものとばかり思っていたのに、ストレッチャーがやって来て、看護婦さんが、「これに乗りますよぉ」と満面笑みで言うのでびっくり。ストレッチャーに乗せられ、肩に注射を打つ(安定剤かなぁ)。この時点で、点滴を刺している方の腕(私の場合、左腕)の袖を抜いた状態でパジャマを着ていたが、いつ手術着に着替えるのか、と疑問のまま、なんとなく眠くなってきた。
看護婦さんに「眠くなってきたかなぁ」と問われて、「はい」と答えると「じゃ、行きましょうか」とガラガラと運ばれていった。多分、13時30分頃だったと思う。手術室の傍には待つ場所が無いので家族は病室で待つように言われていたが、母がついて来ていた。エレベーターに乗るまで、「大丈夫やからな」と2度ばかり声を掛けてくれたが、少し恥ずかしかった、ドラマみたいで。
手術室の中と思われるところで、あれよあれよという間に手術着を着せられる。麻酔の先生が「麻酔師です。緊張していますか?嫌ですよね、手術って」と声を掛けてくれた。でも不思議と緊張はなかった。両手両足を固定する。心電図のようなものや、左手の指に洗濯バサミのような計器をつけたり、たしか、右腕に血圧計のようなものをつけていたように思うが、はっきり覚えていない。
麻酔の先生 |
: |
主治医の先生は? |
看護婦さん |
: |
先生は着替え中です |
麻酔の先生 |
: |
じゃぁ、麻酔かけましょう |
私としてはドラマなんかでよく見る手術着姿の先生を生で見れると期待していたので、先生が来るまで待ちたかった。残念だ。
多分、注射のようなもので麻酔をかけられたと思うが、しばらくして、「眠くなりますよぉ」と言う声が聞こえて、自然に目が閉じていった。
気が付くと本当に病室だった。17時半ぐらいだったらしい。
兄の話によると、病室の前でもう、うっすら目を開けていて、「寒い、寒い」と言っていたようだ。顔も足も真っ白で、電気毛布を入れてもらって、ようやく血色が戻ってきたらしい。私の記憶としては、「手術終わりましたよぉ」とか「○○さぁん(私の本名)」「○○ちゃぁん」という声がいっぱい聞こえて、目がさめたというより、無理やり目を開けた、という感じ。瞼が重たかった。私の足元で、両親と兄が、私から取り出したものを見せてもらいながら説明を受けている気配があった。私も見たい〜!!
すごくトイレに行きたくなって、「トイレに行きたい」と叫ぶように行っていたと思うけど、声は出ていたのだろうか。母は「管ついてるから、そのまましていいよ」と言うが、意識が朦朧としながらもその言葉にショックを受けた。
先生に「目を開けてください」と言われて、目を開けて、先生の質問にも答えたけれど、声が出ていなかったように思う。それから、視界がはっきりせず、先生の顔も、両親の顔も、兄の顔もぼんやりとしか見えなかった。この時の視覚が覚えているのは、兄が紫色の服を着ていたということだけ。他はぼんやり。両親の顔がはっきり見えたのは、夜中だったと思う。
気分が悪くなってきた。吐き気がすごい。吐き気は翌朝まで続いたが、何も出るものがないので、自分で指を突っ込んで無理やり吐いた。両親が交代で起きていたらしく、吐く度に背中をさすってくれていた。何度も体を動かすので点滴の管がよじれて、点滴が止まったりしていた。レポを読んでいた限りでは、動けなくてつらくて長い夜を想定していたが、私は吐き気でつらくて長い夜だった。何度か吐き桶を抱えながら眠っていたようだ。熱も出ていたので、看護婦さんに水枕を作ってもらい、吐き気止めの薬も点滴に入れてもらった。水枕はうまく首の下に入らないと首が痛くてしょうがなく、何度も「もっと、この辺に置いて!!」と母に訴えていた(ボディランゲージで)。
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6月12日火曜日 |
朦朧としたまま朝がきた。吐き気も漸く落ち着いてきた。父は明け方帰ったらしかった。廃液の管に気がつき、驚いた。なんじゃ、この赤いのはぁぁぁ!!
しばらくして、朝食。お腹は空いていたが、吐き気がするのであまり食べなかった。この時、手術後初めて起き上がったことになる。横向きになって、ベッドの柵を両手でつかんでゆっくりと起きた(この起き上がり方は、1週間くらい続いた)。でも、頭が重く、首や肩、背中に力が入って起きているのがつらい。
この日から飲み薬(3種類)とうがい薬が出た。看護婦さんは「しっかり、“うがい”してね」と言うが…。うがい薬って…上、向かれへんやん…。でも、一応、口をクチュクチュ程度でもしておこう…。
主治医のK先生が休診の日だったので、別のM先生(手術に立ち会っていた先生)が回診にやってきて、吐き気のことを少し話した。まだ、ボーッとしていた。
看護婦さんに尿管をはずしてもらった。でも、点滴が続いていたのと、廃液の管をつけていたのとで、その姿のままトイレに自力で行く自信がなく、点滴の針が外れるまで(その日の午前中で外れた)トイレに行くのを我慢していた。熱は続いていたので、引き続き水枕を作ってもらった。
昼食からしばらくして外来に呼ばれる。その時にはじめて、自分の姿を鏡で見たと思う。大きなガーゼがしっかりと首から胸元にかけて張られていて、廃液の管と入れ物を持ち、髪もしっとりボサボサで、よたよたと歩く自分。頭を真っ直ぐすることができず、やや前のめり。見るからに異様。階段を上り下りする自信がなくエレベーターで診察室へ。
「“えー”と言ってみてください」といわれて、「えー」と言ってみたが、かすれてほとんど声は出なかった。ガーゼを交換してもらい病室へ戻る。
眠いのと体に力が入るのとで、寝てばかりいた。
午後、点滴。
夕方近く、水枕の氷が解けて、ぐにゃぐにゃと安定が悪く、かえって首が痛いので、枕無し寝ていた。元々あった枕は、退院するまで使わなかった(バスタオルを適当な高さになるように折って、枕代わりにしていた)。この日一日ヒソヒソ話のような声しかでなかった。
母にお粥を食べさせてもらったり、体を拭いてもらったり、まるで甥(1歳6ヶ月)のような一日だった。
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6月13日水曜日 |
朝食が進まない。お粥がまずくて、匂いを嗅いだだけで吐き気がする。まるで、つわりのひどい妊婦さんのようだ。父に味塩を買ってきてもらったり、おかずをお粥に混ぜてみたり、なんとか食べるように努めたが、無理。さらに首、背中が筋肉痛。
8時ごろから点滴。9時頃、K先生が回診。
12時頃、外来でガーゼの交換。先生は「傷見てみますか?」と、ややためらいがち(?)に尋ねてくるも、「見たいです」と即答した。廃液の管がどうついているのか興味津々。
傷は少々グロテスクに思えたけども、目が悪いので、ボヤーとした感じにしか見えなかった。期待した廃液の管は、傷の端っこに普通に差し込まれているという感じ。引っ張ったら、シュルシュルと抜けるんじゃないかと思った。
先生は切開部分が普通より小さめであること、縫合の糸は細いものを使ったことを説明してくれた。切開部分のことについては、私がまだ若いので、皮膚が伸びやすいから切開が小さくても十分だったと教えてくれた。また、私が不安がらないように、傍にいた看護婦さんにも「普通より小さめですよね」と同意を求めてくれたりしてくれた。気休めかもしれないけど、その心遣いがうれしかった。
15時ごろから本日2回目の点滴。
17時ごろ、K先生回診。母が、私がお粥をマズがって食べないことを先生に申告すると、「もう、何を食べてもいいので、好きなものを食べてください」といわれる。先生に、「傷をみてどうでした?」と問われて、思わず、「ショックといえばショックだった」と答えてしまった。グロテスクで…と付け加えればよかったかなと少し後悔。なんとなく先生の表情がくもったように見えた。
看護婦さんに「ご飯に変えてほしい」というと、「まずいから?」と直球で聞かれて、びっくり。「はぁ、ええ」と答えるのがやっと。ただ、翌日の夕食からしか変えられないと知り、ちょっとショック。
傷を見てから廃液の管がとても気になって、本当に取れないか軽く引っ張ってみたりしていた。前日に比べ、声はだいぶ回復してきて、ホッとする。
まだ、体が重いような感じがしていたが、母の付き添いが無くてもいいように、何でも自分でするようにした。食事の片付けとか、母がしようとするが、そこで甘えてしまうとズルズルとなってしまいそう。
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6月14日木曜日 |
やはり朝食は進まない。
8時ごろから点滴。9時頃、K先生、回診。
12時ごろ外来へ。いよいよ廃液の管をはずす。「抜いたらだいぶ楽になりますよ。入れ物を持たなくていいし…。少し痛いですよ」というが、…痛いことに変わりはなかった。抜けていく感覚を味わう余裕がなく残念だった。ガーゼを交換して、おわり。テープの位置を少しずつ、ずらしてくれてはいるが、ややかぶれ気味で痒い。声は回復。
職場に提出する診断書を書いてくれるよう、お願いした。初診の時に職種は事務と申告してあるが、もう一度確認された上、「重いモノを運んだりする仕事はしますか?」と先生。
たまに書類整理で運ぶことはあるけれど、ごく稀なので「いえ、特には…」と返答。この時は、重いモノは持っちゃいけないのかな…と思っていたけど、実際、首に力が入って持てないことが、数日後に分かる。
15時ごろ、点滴。
診察時にお願いした診断書が手元に来た。『退院後、しばらくの間、療養』とある。いつまで仕事を休もうか、悩み始めた。
18時ごろ、待望のご飯の夕食。
19時ごろ、K先生の回診。「翌日の診察で、抜糸する予定です。少し早いと思うかもしれませんが、遅くなればそれだけ糸のあとが残ってしまいますから」
廃液の管も外れたので、母の夜間付き添いも終わった。外来まで行くだけで、足が筋肉痛になりそうで、動くのが億劫になりがちなので、このまま付き添いが続くと本当にズルズルと甘えてしまいそうだった。
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6月15日金曜日 |
入院時に朝食はお粥と言っておいたけど、「まずい」と言ったからか、パンになっていた。
7時50分頃から点滴。9時頃、主治医のK先生、回診。
10時ごろ、子宮検診に来ていた職場の先輩が病室にやって来て、1時間ぐらい話し込んだ。
12時過ぎ外来へ。いよいよ抜糸。「廃液の管を抜く時ほど痛くはない」という…ホントだった。抜きながら、「さすがに糸細いですね〜。手術室の照明とは違いますから…」と、抜きにくそうだ。消毒して、細かいテープを傷に張る。貼る前にスプレーをしていたけど、それが沁みた。細かいテープの上に更にガーゼでガード。
15時ごろから、最後の点滴。
外泊から戻って、初めての洗髪。看護婦さんの詰め所の流し台へ連れて行かれ、「え?ここで?」と思っていたら、ちゃんとシャワーもついていて、懐かしい散髪屋さんを思い出した。
19時ごろK先生の回診。 看護婦さんが「ガーゼ小さくなって楽そうになったね。抜糸したんだよね」と言うので、「パカッと開いたらどうしよう」と返したら、笑われた。でも、ホント不安。ガーゼは小さくなってうれしいけれど、ただ、お風呂に入っていないので、特大ガーゼのテープのあとが残っている。毎日、体を拭く時になんとか取ろうとしているけれど、思うように取れてくれない。特大ガーゼは毎日少しずつ小さくなってきていたので、テープ部分の位置も変わってきていて、あちこちにあとが…。手強いぞ。
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6月16日土曜日 |
外来は土曜日の交代制で、K先生は休み。
12時過ぎ頃、M先生に消毒・ガーゼ交換してもらう。午後から、立て続けにお見舞いがあり、退屈しのぎになった。兄夫婦と甥(1歳6ヶ月)がやって来た。甥を抱っこしたかったので、試みてみたけどできなかった。首に力が入って…。普段こんなに首の力を使っていたとは知らなかった(首ってスゴイ)。兄と、この病気について少し話をした。入院する2週間前に両親から私の病気のことを聞かされて、インターネットで情報を収集していたらしく、よく知っていた。最近は『家庭の医学』ではなくて、インターネットなんだねぇ。
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6月17日日曜日 |
日曜日ということで、回診も外来もない1日。同室の方たちへのお見舞いがひっきりなし。ご飯を食べる以外は何の楽しみもなく、資格取得の勉強に励んでいたつもりが昼寝。夕方、近くに住む伯母さんがやってきて、私の入院・手術を2〜3日前に聞いたばかりで、「もう、びっくりしたわぁ…」とのたまって帰っていった。
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6月18日月曜日 |
9時頃回診。
廊下で看護婦さんに急に呼び止められ、「髪の毛洗わない?」というので、お願いすると「学生さんに洗ってもらってもいいかな?」。今さら嫌とも言えず、承諾した。なんか物足りない感じがしながらも、看護婦さんの卵だからと、普段しないリンスまでしてもらった。
12時ごろ外来。消毒してもらった後、退院について、尋ねられ、大安で夏至の6月21日を希望した。
午後から義姉と甥(1歳6ヶ月)と義姉のご両親がお見舞いにきてくれた。ご両親はたまたま仕事が休みだったからといっていたが…申し訳ない気持ちだった。入院患者とはいえ、こんなに元気で、ちっとも病人の顔じゃないのに…。
この日、同室に交通事故に遭ったというお姉チャンと、今日外来にきて即手術という人が入ってきた。即手術の人がストレッチャーに乗って横になっているのを見ると1週間前の自分を思い出してしまう。交通事故のお姉チャンは頭にネット、顔は擦り傷だらけだったけど陽気な人で、そのお父さんがさらに輪をかけて陽気な人で、皆、爆笑させられていた。
夕方、看護婦さんに明日からの薬をいただいた。3種類が2種類になっていた。抗生物質とリザベン。
19時ごろ回診。退院後の初診察は6月29日に決まった。
人間の回復力とは凄いものだ。手術から数日は歩くのも少しふらふらしていたのに、今ではすぐ疲れることを除けば、全く普通。近くの病室にいる患者さんの付き添いの人にも、「初めはだいぶ、しんどそうやったのに、元気になったなぁ」といわれるほど。自分でも、びっくりだ。
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6月19日火曜日 |
主治医のK先生がお休みなので回診なし。
12時ごろ、M先生に消毒してもらった。その際、ガーゼをするかどうか尋ねるので、お願いすると、「この(細かい)テープだけやったら、なんか、他の人びっくりしそうやもんな」といわれ、私が他人でも、じっと見るよなぁと妙に納得していた。
消灯後から雨風がひどくなり、雷で何度も目がさめ、あまりの恐怖からか、地震に遭う夢を見た。怖かった。
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6月20日水曜日 |
どうも、寝ている間にガーゼ付近を掻いているようだ。そんな手応え(?)があった。
9時ごろ回診。
12時ごろ外来で消毒。傷跡に貼っている細かいテープは、今後傷が目立たないようにするためのもの。はずれてもいいけども、病院にしかないテープだから、取れてしまって張るときは病院へ来るよう言われる。
それから、病理の結果。退院するまでに伝えられるかどうか分からないと言われていたのに、「早く知らせたかったので」と教えてくれた。
取り出した甲状腺の輪切り写真を見せてもらい、書面も見せてもらった。特にあちこちに広がっていく種類のものではなく、判別のはっきりしにくいところでもあるが、良性。いい結果だ。今後は血液検査と傷の様子を見ていく。
午後、すっきりしたところで、洗髪してもらった。髪を乾かしているところへ職場の先輩方が大きなお花をもってお見舞いにきてくれた。あまりの大きなお花に看護婦さんも、「きれいなお花ねぇ。明日退院やのになぁ」。でも、うれしかった。
19時過ぎ頃、回診。入浴について聞いてみると、別に入ってもいいし、傷のところがぬれてもいいという。ただ、傷のところは水気をタオルで抑えるようにして拭くらしい。
今夜が最後のお泊り。病室ではじめて過ごした夜には、ダンプの騒音にかなり悩まされたが、不思議なことに少しも気にならない。いつのまに慣れてしまったんだろう?
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6月21日木曜日 |
ついに退院日。8時過ぎに両親が来て、ゆうべのうちにまとめた荷物を車に運んでもらった。
9時ごろ回診後、すぐに外来へ呼ばれる。前日におしえてもらった病理の結果を両親ともでもう一度聞く。良性ときいて両親も安心。「手術した右側の経過と、反対の左側についても、私が今後気をつけてみていきます」と先生の言葉を聞いて更に安心した。
テープの交換と消毒。ガーゼでガードもしてもらった。細かいテープは、「退院する時にもう、しない人もいますが、誰しも傷はきれいに治ってほしいものだと思いますので」と先生。私もそう思う。
病室で着替えてお化粧をすると、同室の患者さんや付き添いの人たちに、「あぁ、やっぱり服着たらチャンとするねぇ」と言われ、恥ずかしい。じゃぁ、ここにいる間はチャンとしてなかったのか?私…。
10時ごろ会計を済ませて、病室を出た。退院できるとはいえ、病室を出て行くのは少し寂しかった。脳外科で入院しているおばあさんは便器に座りながらも、自由の利く左手を振ってくれた。 |