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甲状腺科は1936年11月12日に、突然思いがけず、実験医学の新しい時代に突入することとなった。その日、Howard MeansとJacob
Lerman、Saul HertzそしてEarle Chapmanはハーバード大学医学部のバンダービルトホールでの昼食会に出席し、そこでマサチューセッツ工科大学のKarl
Compton博士が“生物学と医学に対し、物理学は何ができるか”という講演を行ったのである。人工放射性同位元素を扱った部分は、年下の同僚であり、友人でもあるRobley
Evansが準備したものであり、彼はその後10年あまりMGH(マサチューセッツ総合病院)の甲状腺グループと密接な関係をもって仕事をすることになったのである。彼はすでに時計のダイアル塗装工のラジウム中毒に関して、数年間Joseph
Aubと共に研究を行なっていた。Evansは(そして今も)魅力的で、穏健な、優れた仲間であり、彼の甲状腺科への貢献は計り知れない。M.I.T.(マサチューセッツ工科大学)とMGHの間の医学的、生物学的方面の研究における協力関係の持続的発展は、主にRobley
Evans氏から始まったものである。
Compton博士の講演の結論が何であったかはあまりはっきりしていない。Earle ChapmanがRobley Evansに聞いたところによれば、“講演後のディスカッションの時に、Means博士が放射性ヨードの利用価値について質問しました”。
一方で、1938年7月19日付の手紙で、Means博士はMarkle協会にこう書いています。“甲状腺の生理学と病理学の研究に放射性ヨードを使うアイデアはもともとHertz氏のものです”
そして、1938年10月8日にMeansはハーバード大学の学長Conant氏にHertz氏が“Compton博士にヨードを放射性にできないかと聞きました。というのは、もしそれができれば、甲状腺の生理学に新しい、重要なアプローチができることになるかもしれないからです”という手紙を書いている。
彼がMGHのWashburnの歴史に寄稿した文の中では、Meansは問い合わせをしたのはHertzであると書いている。Comptonはその時点では答えを出せなかったが、調べてみることを約束した。その質問は甲状腺科のメンバーの中のグループディスカッションから出てきたことは確かであり、誰が質問したかということはあまり重要でないと思われるが、後に甲状腺の機能の研究に放射性ヨードを使うアイデアは誰が先に言い出したか、また放射性ヨードを治療に使うというアイデアは誰が考え出したかということになればずっと重要性が増すのである。事実、代謝の研究に放射性同位元素を使う原理やその治療への応用の可能性については、一部Compton博士の話しに出ていたのである。Meansはこの論争に決して入り込むことはなかった。確かなことは、1936年12月15日にComptonがHertzにあて、次のような手紙を書いていたことである。 |
親愛なるHertz博士 |
恥ずかしいことですが、ヨードの放射能についてのご質問のメモをたった今見つけました。
ヨードは人工的に放射性を持つようにできます。その半減期は約25分で、最大エネルギーが210万ボルトのガンマ線とベータ線(電子)を放出します。
他にも数種類の半減期を持つものがあると思われます。そうであれば、その放射能のタイプはここに示したものと類似したものとなるでしょうが、まだいまのところはっきり確認されていません。 |
敬具
Karl T. Compton |
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1937年始め、Evansは半減期が25分のヨードの放射性同位元素をM.I.T.(マサチューセッツ工科大学)で作ることが可能なことを示唆するいくつかの予備研究を行なっている。これは、ラジウムを源にして、中性子を放出させるためにベリリウムに衝撃を与える方法で行われた。それは次にヨードを放射性同位元素128-Iに変換する。ガイガー・ミューラーカウンターを生成物に押し当てて、放射性ヨードのベータ線が検知されたが、ガンマ線の放出をするものではなかった。1937年の5月までに、EvansはMeansやHertzと共に、放射性ヨードを使って行う研究の大まかなアウトラインを作成した。1937年9月に、Arthur
Robertsがこれらの研究を行うという目的で、Evansの研究室に加わった。ラジウムから出るアルファー線をベリリウムに衝突させたものを中性子源とし、このラジウムは引退したボストンの医師から寄付された針から回収された。線源はパラフィンに埋め込まれ、ターゲットである沃化エチルを照射した。中性子がヨードに捕らえられた瞬間に結合が壊れ(シラード・チャマーズの過程)、水性相で抽出されるヨードを放出する。放射性ヨードは沈殿性の沃化銀として濃縮され、その後少量のチオ硫酸ナトリウム溶液中で回収される。ComptonとMeansはこれらの初期の研究に対する経済的支援を取り付けた。
M.I.T.と甲状腺科の間の合弁事業の最終的な目標が、甲状腺中毒症、そしておそらくは甲状腺癌の治療であったことは最初からはっきりしていた。生物学的研究はすべて、M.I.T.のEvansの放射能センターでHertzとEvansが行った。彼らの初期の研究では、放射性ヨードが甲状腺に選択的に集積し、キャベツ食または甲状腺刺激ホルモン投与で誘発された甲状腺肥大ではその取り込みが増加することが示された。これらの所見は1938年に発表されたが、生物学的実験に放射性ヨードが使われた最初のものである。
ここにちょっと面白い出来事があった。1938年4月12日付のMeansに宛てた手紙の中で、Evansは全国大会で放射性ヨードを使った研究が発表され、その後にサイエンスサービス他の新聞への発表を行ったことに注意を喚起している。その発表の中で、Evansが果たした役割については何も言われておらず、また出版するばかりになっていた原稿の中にもEvansが研究に加わっていたことは述べられていない。すべての研究はM.I.T.で行われたものであるし、少なくともEvnasはHertzと同じくらい研究に打ち込んでいたので、これは驚き以外の何ものでもない。同じ日にHertzが実験生物学と医学学会報の編集長に宛てた手紙には、ハーバード大学とMGHとのM.I.T.の合同研究の役割に対する謝辞を入れ、Evansを共同執筆者として加えるよう要請している。EvansとHertzの間、またはHertzとMeansの間で何が起こっていたのか知る手がかりはないが、この出会いが大変激烈なものであった可能性があることは十分に想像がつく。
M.I.T.とMGHの研究チームのメンバーは放射性ヨードの潜在的な値打ちに気付いたが、研究は初期に利用できた放射性同位元素の半減期が25分であることでうまく進まなかった。1938年には半減期が24時間の130-Iと半減期が8日の131-Iの同位元素が発見されたのだが、利用できるようになったのは後のことである。その年に、ComptonとEvansはM.I.T.に生物学研究用放射性同位元素の生産に使うサイクロトロン建設のための資金援助をマークル財団に要請し、受理された。そのサイクロトロンは1940年11月にはフル稼動し、動物実験の拡充やヒトでの初期研究のための130-Iを供給し、そしてM.I.T.での最初のバセドウ病患者の治療用放射性ヨードの線源となった。マークル財団は数年間にわたって惜しみない支援を続けた。M.I.T.のサイクロトロンは、1400万ボルトでデュートロンでテルリウムに衝撃を与えて130-Iを生産するようになっていた。ケンブリッジのサイクロトロン建設中は、バークリーとロチェスターの機械から放射性ヨードを供給して貰った。 |