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[005]
患者さんとの橋渡し【Bridge】 Bridge; 1991 Summer

14:放射性ヨードの発見 / John B. Stanbury, M.D.
以下の文は、John B. Stanbury, M.D.著『絶え間なき発酵、マサチューセッツ総合病院(MGH)での甲状腺診療と検査の歴史』からのもので、Stanbury博士の許可を得て再録いたしました。
甲状腺科の研究者が貢献したことで、もっとも重要かつ重大なものの一つは、甲状腺の生理学と病理生理学の研究、および甲状腺疾患の治療に放射性ヨードを使ったことである。放射性ヨードが発見されるずっと前に、バセドウ病の治療にレントゲン線という形の放射線が使われていたが、放射性ヨードは代謝経路を通じてヨードを追跡できるだけでなく、甲状腺疾患の治療で、適確な線量を患部に届けることができるのである。
1911年と1913年の間に、イギリス、マンチェスターのGeorge HevesyとウィーンのFritz Panethは、どちらも大学院生として別々に研究を行っていたが、今では210-Pbとして知られているラジウムDが安定した鉛から分離できず、そのことからこれを安定した鉛の指標として使うことができることを発見した。主にこれらの研究と、その後の研究で、Hevesyはノーベル賞を受賞した。彼は1924年にはもう、ラジウムDとトリウムBを追跡子として使い、植物とラットでの鉛の代謝とラジウムEでラベルしたビスマスの分布を研究していた。したがって、生体で放射性同位元素を追跡子として使うアイデアは、放射性ヨードが登場する時点ではもう目新しいものではなかったのである。
バセドウ病の治療に放射線を最初に使ったのは、おそらくRobert Abbeである。彼は1905年に甲状腺の中にラジウムを縫い込んで、眼球突出性甲状腺腫(バセドウ病による甲状腺機能亢進症のこと)が治癒に至ったことを発表した。X線照射が最初に活発すぎる甲状腺の治療に使われてからまもなくのことである。1920年以前に、マサチューセッツ総合病院でMeansとHomesがX線照射をバセドウ病の治療に使った(後に、治療を受けた患者の一部に放射線誘発性の皮膚癌ができ、手術で除去された)。1934年にキュリーとジョリオにより人工放射能が発見され、その後間もなく多くの元素で人工的に放射性同位元素ができることが発見された。これには特にイタリアのFermiによるものが大きい。これが、近代的な分子生命科学がほとんど存在しなかった実験生物学の分野に窓を開くことになったのである。
John B. Stanbury, M.D.

新しい時代の始まり
甲状腺科は1936年11月12日に、突然思いがけず、実験医学の新しい時代に突入することとなった。その日、Howard MeansとJacob Lerman、Saul HertzそしてEarle Chapmanはハーバード大学医学部のバンダービルトホールでの昼食会に出席し、そこでマサチューセッツ工科大学のKarl Compton博士が“生物学と医学に対し、物理学は何ができるか”という講演を行ったのである。人工放射性同位元素を扱った部分は、年下の同僚であり、友人でもあるRobley Evansが準備したものであり、彼はその後10年あまりMGH(マサチューセッツ総合病院)の甲状腺グループと密接な関係をもって仕事をすることになったのである。彼はすでに時計のダイアル塗装工のラジウム中毒に関して、数年間Joseph Aubと共に研究を行なっていた。Evansは(そして今も)魅力的で、穏健な、優れた仲間であり、彼の甲状腺科への貢献は計り知れない。M.I.T.(マサチューセッツ工科大学)とMGHの間の医学的、生物学的方面の研究における協力関係の持続的発展は、主にRobley Evans氏から始まったものである。

Compton博士の講演の結論が何であったかはあまりはっきりしていない。Earle ChapmanがRobley Evansに聞いたところによれば、“講演後のディスカッションの時に、Means博士が放射性ヨードの利用価値について質問しました”。
一方で、1938年7月19日付の手紙で、Means博士はMarkle協会にこう書いています。“甲状腺の生理学と病理学の研究に放射性ヨードを使うアイデアはもともとHertz氏のものです”
そして、1938年10月8日にMeansはハーバード大学の学長Conant氏にHertz氏が“Compton博士にヨードを放射性にできないかと聞きました。というのは、もしそれができれば、甲状腺の生理学に新しい、重要なアプローチができることになるかもしれないからです”という手紙を書いている。 彼がMGHのWashburnの歴史に寄稿した文の中では、Meansは問い合わせをしたのはHertzであると書いている。Comptonはその時点では答えを出せなかったが、調べてみることを約束した。その質問は甲状腺科のメンバーの中のグループディスカッションから出てきたことは確かであり、誰が質問したかということはあまり重要でないと思われるが、後に甲状腺の機能の研究に放射性ヨードを使うアイデアは誰が先に言い出したか、また放射性ヨードを治療に使うというアイデアは誰が考え出したかということになればずっと重要性が増すのである。事実、代謝の研究に放射性同位元素を使う原理やその治療への応用の可能性については、一部Compton博士の話しに出ていたのである。Meansはこの論争に決して入り込むことはなかった。確かなことは、1936年12月15日にComptonがHertzにあて、次のような手紙を書いていたことである。
親愛なるHertz博士
恥ずかしいことですが、ヨードの放射能についてのご質問のメモをたった今見つけました。 ヨードは人工的に放射性を持つようにできます。その半減期は約25分で、最大エネルギーが210万ボルトのガンマ線とベータ線(電子)を放出します。 他にも数種類の半減期を持つものがあると思われます。そうであれば、その放射能のタイプはここに示したものと類似したものとなるでしょうが、まだいまのところはっきり確認されていません。
敬具
Karl T. Compton
1937年始め、Evansは半減期が25分のヨードの放射性同位元素をM.I.T.(マサチューセッツ工科大学)で作ることが可能なことを示唆するいくつかの予備研究を行なっている。これは、ラジウムを源にして、中性子を放出させるためにベリリウムに衝撃を与える方法で行われた。それは次にヨードを放射性同位元素128-Iに変換する。ガイガー・ミューラーカウンターを生成物に押し当てて、放射性ヨードのベータ線が検知されたが、ガンマ線の放出をするものではなかった。1937年の5月までに、EvansはMeansやHertzと共に、放射性ヨードを使って行う研究の大まかなアウトラインを作成した。1937年9月に、Arthur Robertsがこれらの研究を行うという目的で、Evansの研究室に加わった。ラジウムから出るアルファー線をベリリウムに衝突させたものを中性子源とし、このラジウムは引退したボストンの医師から寄付された針から回収された。線源はパラフィンに埋め込まれ、ターゲットである沃化エチルを照射した。中性子がヨードに捕らえられた瞬間に結合が壊れ(シラード・チャマーズの過程)、水性相で抽出されるヨードを放出する。放射性ヨードは沈殿性の沃化銀として濃縮され、その後少量のチオ硫酸ナトリウム溶液中で回収される。ComptonとMeansはこれらの初期の研究に対する経済的支援を取り付けた。

M.I.T.と甲状腺科の間の合弁事業の最終的な目標が、甲状腺中毒症、そしておそらくは甲状腺癌の治療であったことは最初からはっきりしていた。生物学的研究はすべて、M.I.T.のEvansの放射能センターでHertzとEvansが行った。彼らの初期の研究では、放射性ヨードが甲状腺に選択的に集積し、キャベツ食または甲状腺刺激ホルモン投与で誘発された甲状腺肥大ではその取り込みが増加することが示された。これらの所見は1938年に発表されたが、生物学的実験に放射性ヨードが使われた最初のものである。

ここにちょっと面白い出来事があった。1938年4月12日付のMeansに宛てた手紙の中で、Evansは全国大会で放射性ヨードを使った研究が発表され、その後にサイエンスサービス他の新聞への発表を行ったことに注意を喚起している。その発表の中で、Evansが果たした役割については何も言われておらず、また出版するばかりになっていた原稿の中にもEvansが研究に加わっていたことは述べられていない。すべての研究はM.I.T.で行われたものであるし、少なくともEvnasはHertzと同じくらい研究に打ち込んでいたので、これは驚き以外の何ものでもない。同じ日にHertzが実験生物学と医学学会報の編集長に宛てた手紙には、ハーバード大学とMGHとのM.I.T.の合同研究の役割に対する謝辞を入れ、Evansを共同執筆者として加えるよう要請している。EvansとHertzの間、またはHertzとMeansの間で何が起こっていたのか知る手がかりはないが、この出会いが大変激烈なものであった可能性があることは十分に想像がつく。

M.I.T.とMGHの研究チームのメンバーは放射性ヨードの潜在的な値打ちに気付いたが、研究は初期に利用できた放射性同位元素の半減期が25分であることでうまく進まなかった。1938年には半減期が24時間の130-Iと半減期が8日の131-Iの同位元素が発見されたのだが、利用できるようになったのは後のことである。その年に、ComptonとEvansはM.I.T.に生物学研究用放射性同位元素の生産に使うサイクロトロン建設のための資金援助をマークル財団に要請し、受理された。そのサイクロトロンは1940年11月にはフル稼動し、動物実験の拡充やヒトでの初期研究のための130-Iを供給し、そしてM.I.T.での最初のバセドウ病患者の治療用放射性ヨードの線源となった。マークル財団は数年間にわたって惜しみない支援を続けた。M.I.T.のサイクロトロンは、1400万ボルトでデュートロンでテルリウムに衝撃を与えて130-Iを生産するようになっていた。ケンブリッジのサイクロトロン建設中は、バークリーとロチェスターの機械から放射性ヨードを供給して貰った。

放射性ヨードを使った甲状腺の治療
放射性ヨードを使った初めての治療の試みは、M.I.T.で1941年にMeansとEvansの総指揮のもと、HertzとRobertsによって130-Iを使って実施された。1941年の12月までに、Hamilton等もバークリーで治療実験を行った。どちらのグループの試みも、1942年の臨床研究雑誌(the Journal of Clinical Investigation)の同じ頁に抄録として最初に発表された。ただし、人体への使用または放射線防護委員会による承認がなかったことは、特に興味深いことであるが、だいたいそのような委員会が存在しなかったのである。

その後の何ヶ月かで、10名の患者が治療を受け、その後さらに20名が平均約5mCi(ミリキュリー)の線量で治療を受けた。患者はそれぞれ治療後1から3日して、安定ヨードの投与を開始した。安定ヨードはバセドウ病の寛解をもたらすことが多かったためで、これらの患者で症状が寛解したのは放射性ヨードのためであるのか、それともその後の投薬によるものかは定かでない。報告にあるように、29名の患者のうち20名で良好な結果が出た。

その間に、他の者は何人かの甲状腺中毒症も含む患者への放射性ヨードの利用法を探ることに従事していた。モントリオールのLe Blondは動物を使った研究の結果を1940年に最初に発表した。1940年始めにSoleyがMGHとM.I.T.で治療への試みが進んでいることを知り、同じような実験を行うことについての許可を求める手紙をMeansに宛てて書いたと言われている。しかし、この手紙は、実際にMeansが受け取ったのだとしても、今では失われてしまっている。Mayo Soleyがそのような丁重な手紙を書いたことは、彼の性格をよく表わしていると言えるであろう。
1943年始め、Hertzは海軍の軍務につくため甲状腺科を去り、代わりにRulonRawsonが甲状腺科医長となった。Arthur Robertsは、戦時下で急を要するレーダーの開発に従事するためM.I.T.の放射能センターを去り、Earle Chapmanが放射性ヨード治療プログラムを引き継ぐように要請を受け、1943年始めに彼はその任についた。

放射性ヨードと一緒に安定ヨードを使うことで状況が不明瞭になるため、Chapmanは患者を放射性同位元素のみで治療するプロトコールを採用した。そして、まもなくそれが実際に効力のある物質であることを証明することができたのである。この問題に関する最初の論文は1946年にEvansと共同で発表されたが、それには最初に放射線治療を行った後、甲状腺の著しい線維化が示されている。彼らは甲状腺のサイズの減少や基礎代謝速度の低下、甲状腺が正常状態になる時期などを記載しており、初めて甲状腺へ達する放射線線量について、広範な詳述を行なっている。この論文の中で、つぎのような結論が書かれている。

甲状腺機能亢進症では、通常のヨードの約1mg以下に相当する放射性ヨードを経口投与すると、そのほとんどが甲状腺に集積する。放射性ヨードから出るベータ線は甲状腺内に放出され、物理的にレントゲン照射と同じような内部照射が起こる。14mCi(ミリキュリー)の放射性ヨードを飲んだ患者の線量は、12時間の同位元素によるとおおよそ3,400レントゲンに匹敵すると算出された。
1943年5月と1945年3月の間に、22名の甲状腺機能亢進症患者が高い線量の放射性ヨードで治療を受けた。他の形の治療は一切行われなかった。14名の患者は放射性ヨードの1回量によく反応し、3名は2回量、また5名は3回量が投与された。4名の患者で治療後に粘液水腫が生じた。2名の患者はこの物質で治療を行った後、改善は見たものの、まだ軽度の甲状腺機能亢進症が残っている。
高い線量の放射性ヨードを与えた後、患者6名にレントゲン宿酔に似た症状が観察された。治療後に2名の患者の生検で、甲状腺の線維化が観察された。
他の形の治療にうまく反応しなかったり、あるいはヨードやチオウラシルに感受性の高い患者は、放射性ヨードによく反応した。通常のヨードは放射性ヨード治療と併用する必要はない。
放射性ヨードを使った治療は、今後、甲状腺中毒症のコントロール法のリストに大きな位置を占めるようになると信じている。

アメリカ医学雑誌の同じ号に、ChapmanとEvansの論文よりほんのちょっと前に書かれたHertzとRobertsの論文が出ており、それには1942年と1943年の間に治療した患者の詳細なフォローアップ情報が含まれている。29名のうち20名で寛解が得られ、一部は甲状腺機能低下症に進んだ。安定ヨードの投薬は、フォローアップの評価を行うようになるずっと前に中止されていた。ChapmanとEvansの反論は、彼らの結果が1943年に導入された当時には、放射性ヨードだけを使う方法が治療試験で十分に正当化されていたのに、安定ヨード投与をその治療法に加えたために不明瞭になったということである。それにもかかわらず、発表されたとおりHertzとRobertsの患者での新しい結果は、大多数の例で、130-Iを使った治療が実際に効果があることを示唆している。

甲状腺の生理学の研究
放射性ヨードはたちまち健常者と病人でのヨード代謝の研究に欠かせないものとなった。キャリアー(担体)としての安定ヨードの量の重要性を十分に認識することで、このファクターはコントロールでき、またあらかじめ存在する不確実性は解決できる。放射性ヨードを指標として使い、動物とヒトで甲状腺機能の長期にわたる系列的観察が、Rulon Rawsonが1942年に甲状腺科医長に就任すると同時に始められた。この放射性同位元素は甲状腺刺激ホルモン(TSH)のアッセイの開発と甲状腺機能の調節にこのホルモンが果たす役割の研究にきわめて重要なものであった。

放射性ヨードを用いた初期の研究は、一般的に130-Iで行われていた。これは手に入りやすかったためで、この同位元素は数年間治療目的に使われていた。外部からカウンターによる甲状腺の放射能を測定することで、様々な種類の甲状腺疾患でのヨードの集積と放出速度に関する優れたデータが得られた。Evansと彼のチームはこれらの開発では先を行っていた。

投与された放射性ヨードの部分的および全体的な取り込みの定量に関しては、最初の3日間に尿中に排泄されたアリコット(分割量)の比較に頼る方法が一般的に好んで使われた。甲状腺が受けた線量は、体内に保持された放射性ヨードの量に比例し、いちばん重要なのは、甲状腺の重さに反比例することである。この理由から、初期の臨床家は物理学者から、治療計画を立てる前に各々の患者の甲状腺の重さを見積もる技術を磨くよう強く求められたのである。M.I.T.とMGHグループによるその後の研究で、甲状腺の推定グラムあたりに保持される平均1回有効量が定められた。幸いに、今では甲状腺のサイズは超音波画像診断によってかなりの精度で、客観的に推定できるようになった。

放射性ヨードの医療への導入は、誰が先に考え出したのか、ここで個人的な意見を挟んでみるのも面白いのではないかと思う。Hertz、RobertsそしてEvansが最初に動物での研究を報告したのは明らかである。ただ、あのバンダービルトホールでの運命的な昼食会で、放射性ヨードを使うアイデアを口に出したのは一体誰なのか、MeansなのかHertzなのかはなぞのままであろうが、様々な文献を調べた結果、はっきり言えることは、このアイデアはMeansとChapman、Hertz、そしてLermanの間の合同討議の中から出てきたものであるということだけである。
それにもかかわらず、Compton学長に質問をしたのはHertzだということはかなり確かである。Meansは1920年代にHolmesと一緒に行った研究から、活発すぎる甲状腺に放射線が有効であることはよく知っていた。そのため、バセドウ病の治療に放射性ヨードを使うということに関しては、最初の話し合いの時から合意ができていたのではないかと思われる。Hamilton等はほぼ同じ時期に放射性ヨードを使い始めている。治療プログラムということに関しては、Hertz、Means、Evans等は放射性ヨードの後に安定ヨードを加えることで、実際に不確実な要素を差し挟むことになったのである。しかし、1946年のアメリカ医学会雑誌中のHertzとRobertsの論文では、ほとんどの患者が放射性ヨードのみで治療し、成功したことを明確にしている。このことから、私自身の見方としては、甲状腺機能の研究と治療応用のどちらもHertz、MeansおよびEvansが先であったと思うが、さらに付け加えれば、これらの例ではどちらが先であったかという問題はそれ程重要ではないと思われる。

放射性ヨード取り込み試験の開発
第2次世界大戦が終わりを告げるまでに、130-Iと131-Iの物理と線量計測法はかなりのところまで進んでいた。
1946年の8月にオークリッジ国立研究所で、ウラン-235の核分裂により作り出された半減期が8日の放射性同位元素131-Iが一般使用向けに販売されるようになってから、すべては長足の進歩を遂げたのである。それ以後は、実験や臨床研究用、あるいは治療用に使えるすべての放射性ヨードが速達便で入手できるようになったのである。
甲状腺の機能に変化を来たした患者では、放射性ヨードを甲状腺の活動性の指標として使う方法の改善と生物学的規格化がぜひとも必要なことであった。1947年のロックフェラー特別研究員、1948年のウォールコット特別研究員であったスウェーデンのマルメー出身のBengt Skanseが、そのような検査の開発の任にあたることとなった。彼はM.I.T.でEvansとそのグループと共に甲状腺科で働いた。ウプサラ大学の学位論文として1949年に発表された彼の論文の中で、彼は多くの患者に投与した後の放射性ヨードの排出速度の定量結果を見事なまでに詳細に記載している。そして、それらを規格化した形状を持つガイガー・ミュラー管を用いてin vivoでの甲状腺の取り込みの測定値に対応させ、結果は基準時間に甲状腺内に存在する量と投与量の比として得られることを示した。この取り込み試験は、多くの改良法で、また投与量の低下と照準法の改良に伴い、診断に計り知れない価値を持つことが証明されてきた。最近では、一般的に放射線照射に対する懸念と他にもっと正確な診断ができる方法が出てきたため、以前ほどには使われなくなったが、それでもまだ甲状腺中毒症の診断や、特に放射性ヨードによる中毒性甲状腺腫の治療の前準備として頻繁に使われている。診断目的には、エネルギーの低い123-Iが現在使われている。

131-Iが入手できるようになったことで、甲状腺中毒症の治療はより現実的なものとなった。Chapman、Maloof等は1954年に別の患者での外来診療科の経験をまとめ、以前に半減期の短い放射性同位元素で治療を受けた患者の長期観察結果と比較した。1964年にChapmanと筆者はロンドンの放射性ヨード治療に関する会議に出席したが、その後アイルランドに立ち寄り、グレーブスや他のアイルランド医学の黄金期の名士に敬意を表した。帰る途中、安定ヨードによる治療を治療量投与の1週間後に始めれば、放射性ヨードに対する反応が遅いことに、患者はもっと耐えられるようになるのではないかという考えが浮かんだ。この方法では、安定ヨードに対する機敏な反応で、放射線が甲状腺に効き目を現すまでの間、症状の多くを和らげることができるのである。これは、最初にHertz、RobertsおよびEvansが使ったテクニックの再現であったが、唯一の違いは、ヨードの投薬を開始する前にもっと長い時間の経過が可能なことであった。

事実上すべての放射線は48時間以内に130-Iにより、甲状腺内に放出されるが、一方で半減期が8日の放射性同位元素では放出にかかる時間はかなり長くなる。このため、実験で放射性ヨードの量を減らすことも可能になったのである。多数の一連の患者はそのような処置を受け、その結果は好ましいものであるように思われた。そして、その後引き続いて所見が発表されたのである。

最初にはっきり口に出したのはMeansであるが、骨髄やゲノム(ある生物種が存在するために必要最低限遺伝子を含む染色体の一組のDNA)、あるいはそれ以外のどこかに放射性ヨードは新生物を生じさせるような毒性を持つ可能性があるという懸念があった。甲状腺科は常にそのような懸念を持つ人達の最前列に位置していた。Maloofは1948年に甲状腺科に加わってまもなく、131-Iの線量を様々に変えて照射した後の細胞の変化について研究を始めた。その結果、例えわずかな線量であっても、ラットでは異常が見られたのである。Chapmanは、主に後になって起こる好ましくない事象をどのようなものであれ、探り出すという意図を持って、放射性ヨードで治療を受けた患者の継続的なフォローアップという重要な責務を引き受けた。彼と共同研究者は、治療量を投与した後、投与量には関わりなく、時間の経過とともにほぼ直線的に甲状腺機能低下症の発生率が上がってくることを示した。彼は、晩期甲状腺機能低下症の発生率を減らそうとして、放射性ヨードの投与量を減らすプログラムも開始した。

Chapman、MaloofおよびDobynsは131-I照射後の白血病と甲状腺癌の発生率の長期研究の主要メンバーであり、また大きな貢献をした。この結果は徹底的に分析され、治療量の放射性同位元素で白血病や甲状腺癌が起こるという証拠は浮かび上がらなかった。事実、甲状腺中毒症に使われる量で放射性ヨードが発癌効果を持つという証拠はない。また、遺伝子欠陥も見つからなかったが、そのようなことがあっても、誘発性突然変異は単一の遺伝子のヒット(傷をうけること)の結果であることがほぼ確実であり、またおそらく劣性であるため、驚くようなことではない。

甲状腺スキャンと甲状腺癌
他にも放射性ヨードの価値ある利用法が見出された。1940年代の終わり頃に、外科医師であるBrown Dobynsは照準を定めた検知機を使い、in vivoで甲状腺をスキャンすることで示される甲状腺の局所活動に関する長期の一連の観察を始めた。この方法では、甲状腺内で様々なレベルの活動性を持つ領域を突き止めることができ、これを触診で検知した甲状腺の形状と関連付けることが可能になったのである。この情報は外科標本での活動性とも相互に関連付けることができた。後者は線量測定で検出できるが、もっとよい方法は、標本から薄い切片をとり写真フィルムに露出させることである(ラジオオートグラフ)。これらの観察から、放射性同位元素をほとんど取り込まない甲状腺内の結節は、隣接組織より放射性同位元素の集積が高い結節に比べ、悪性変化が起こっている部位である可能性がはるかに高いことがわかった。

放射性ヨードは広範に研究され、甲状腺科では甲状腺癌に使われた。初期診断、転移部位の特定、治療法、大きな線量の中毒作用、および治療結果が記載されている。

時間が経つにつれ、放射性ヨード検知用の機器はさらに精巧なものとなった。手用スキャンニングは自動スキャンニング装置やガンマカメラに替わり、放射性ヨードもまた他の様々な診断法に採用されるようになった。これらの中には、甲状腺ホルモンの合成と分泌速度の測定(PB131-I)およびサイロトロピンや持続作用性甲状腺刺激物質、血清中のサイロキシンとトリヨードサイロニン濃度のアッセイ(放射性免疫アッセイ)がある。

今では、患者の診断に果たす放射性ヨードの役割は減少したが、消えてしまうことはない。異なった崩壊時間と放射エネルギーパターンを持つ他のヨードの同位元素が特別の目的のために導入された。かなりの程度まで、弥漫性中毒性甲状腺腫の治療は、放射性ヨードから手術に替わったが、まだ研究と診断用検査では欠かせない道具としての位置を保っている<注釈:このパンフは1991年のものである。このころは、アメリカでも、手術が多く行われていたことがわかる。現在、アメリカではバセドウ病患者の90%がアイソトープ治療を受けている>。

John B. Stanbury, M.D.著『絶え間なき発酵、マサチューセッツ総合病院(MGH)での甲状腺診療と検査の歴史』のコピーは、Box291, Ipswich, MA 01938のIpswich Pressまで手紙で注文されると入手可能と思われます。ハードカバー240頁、定価$20.00(マサチュウセッツ州居住者は5%の税金が加算されます)送料および手数料$1.75. 出版日1991年9月

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