情報源 > 患者情報[029]
02
オリジナル→
[029]
甲状腺疾患を持つ有名人

02:アイザック・アシモフ…甲状腺癌を持つSF小説の大御所

ストーリー
アイザック・アシモフアイザック・アシモフ、Ph.D.(1920-1992)は著明なサイエンスフィクション作家であり、一般には信じられないほど多作の作家として知られています(生涯に500冊を優に超える本を出版しました)が、甲状腺乳頭癌に罹りました。1971年12月16日、52歳の時にかかりつけの内科医が診察中に手で触れることができ、目にみえるしこりに気が付きました。1972年1月10日に行った放射性ヨードスキャンでその結節がコールドであることがわかり、アシモフ博士は1972年2月15日に右側の甲状腺切除を受けました。その後の治療は生涯にわたる甲状腺ホルモン抑制療法でした。これがこのストーリーの終わりだと言えるのは幸いです。アシモフ博士はその後、甲状腺に何の問題も生じることなく、20年以上生き延び、最後は甲状腺とは無関係の原因(腎不全とそれに伴う循環器病)により、72歳で亡くなりました。

私は博士の回顧録を持っていますが、そのタイトルは『私、アシモフ』というもので、578頁のペーパーバックです。この中で博士は自分の癌について語るのにちょうど3頁を費やしています。私自身にも甲状腺結節が見つかり、その後それが乳頭癌であるという診断が下ったため、これは大きな慰めとなりました。物事に押しつぶされそうになった時、あるいは先の見通しが立たなくなり始めた時、私は深呼吸をして、自分にこう言ったのです。「私の500頁の生涯の内、たった3頁の出来事に過ぎないではないか」

アシモフ博士の甲状腺の話について、もっと知りたい方には、『月の悲劇』という本の中にある、【先生、先生、私の喉を切ってくれ】の項をお読みになることを心からお勧めします。これは当地の図書館で簡単に入手できるはずです。アシモフ博士のウィットに富んだ、気取らないスタイルは読んで楽しいものです。『私、アシモフ』の中の3頁の文章とそれより前の自伝『今だに喜びを感じて』の中にそれよりちょっと長いバージョンもあります。この3つのバージョンは基本的には同じですが、アプローチと内容の詳しさの程度が違っています。もし、アシモフのファンであるか、甲状腺のことが頭にこびり付いて離れない人は(私は何とその両方なんですが)、3つとも全部読んでみたいと思われるでしょう。

私のコメント
「先生、先生、私の喉を切ってくれ」はアシモフ博士が『私、アシモフ』の中で、それを書いた時のことをこう言っています。
「手術は私が作家でどれほどよかったかということを証明する機会を与えてくれた。カールは手術代金として$1500請求した(それに十分値する)が、後でそのことについてのちょっとした文章(私の小品に入れた)を書き上げて、それに$2000請求した。アッハッハ。どうだい。大先生殿。(医学部に入学できなかった時以来、これほど嬉しいと思ったことはない)」
私は先に述べた文章に“癌”とか“癌腫”という言葉が使われていないのに気が付きました。その代わり“結節”とか“甲状腺組織の不規則な増殖”と言っています。アシモフ博士はこの上なく率直な人でしたし、その生涯も周知のことですので、今では自伝と回顧録のどちらにも“癌”という言葉が使われています。私はアシモフ博士の側に遠慮したというより、むしろ編集者の校正の赤ペンが入ったのではないかという疑いを持っています。70年代を思い出してみますと(1972年に私が7歳であったことを頭に入れておいてください)、癌は当時恐ろしい魔物のようなものであり、声をひそめて話すか、“大文字のC”としてそれとなくほのめかすものでした。ちょうど80年代のエイズのように。ほんとうに時代がすっかり変り、ずっとよくなったと思います。
“すっかり時代が変った”というところにまだ付け加えたいことがあります。博士の右の甲状腺切除に関してですが、アシモフ博士は1972年2月12日に入院し、そのちょうど1週間後の1972年2月19日に退院しました。皆さんが全部そうかは知りませんが、1997年に私は右の甲状腺切除を受ける朝に入院し、翌日退院しました(2週間後に左側の甲状腺切除をするため、手術を受ける朝に入院し、ここでも翌日に退院しました)。
もっと他にも時代の変化が見られます。アシモフ博士は彼が飲んでいた甲状腺ホルモン剤がどのようにして屠殺した家畜の甲状腺から抽出されるかということを述べています。シントロイドより前の時代だったのです!(CJD「訳注:クロイチェルヤコブ病-狂牛病の牛から人に感染すると言われる」以前の時代でもあります…笑う牛に御用心?)
語源について
私の辞書には“甲状腺”という言葉はギリシア語の“楕円形の盾”から来ているとあります。しかし、私がその由来についての説明を見た唯一の場所はアシモフ博士の文章です。博士はこう書いています。「これはホーマーの時代およびホーマー以前の時代の戦士が携えていた長方形の盾である。この盾の上の方には凹みがあり、そこから用心しながら頭を出し、状況を探るようになっていた。喉仏のてっぺんにちょうどそのような凹みがある。それからこの名前が付いたのである」

もどる