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20年前、英国の北東部において全成人住民に対して甲状腺疾患、特に甲状腺機能低下症のスクリーニングが行われた(the
Whickham study)(Tunbridge et al. 1977)。今日においてさえも、このWhickham
studyはすばらしい研究である。その後の異なったやり方や別の地域で行われた研究でも、最初のWhickham studyの結果を支持するものである(Wang
and Crapo 1977)。世界的にみて、これらの研究では甲状腺機能低下症の頻度は高く、住民の1〜10%であり、しばしばまだ診断されていない例の多いこと、女性に多いことなどを示している。甲状腺機能低下症の最も多い原因は慢性甲状腺炎である。甲状腺自己抗体の頻度は女性では年令が増すにつれて高くなる(45歳以下:
6%、45〜75歳: 10%、75歳以上: 15%以上)。甲状腺機能低下症も年令が進むにつれて、頻度が高くなる。最近の再調査では、Whickham
studyは新たな事実を見出した、すなわち、顕性甲状腺機能低下症の頻度としては女性では少なくとも年間に1,000人につき4人が発症し、血清TSH高値と甲状腺自己抗体陽性と甲状腺機能低下症の発症の間には強い関連性があることが分かった(Vanderpump
et al. 1995)。そこで、若い女性にも甲状腺自己抗体陽性者が多いために、甲状腺機能低下症が妊娠に影響を与えるか、妊娠によって甲状腺機能低下症の経過に影響を及ぼすのかを考慮することは当然のことと思われる。 |
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甲状腺機能低下症と不妊の関係はよく知られた事実である。ほとんどの場合、これは主として排卵障害との関係であり、流産とは関係ない。甲状腺ホルモン剤の治療を要する女性は普通の女性と比べて、約2倍の排卵性障害による不妊の危険がある(Garber
1977)。
甲状腺機能低下症の女性が妊娠した場合、子宮内胎児死亡、妊娠高血圧症、胎盤剥離、産前産後の不調などの産科的合併症の危険性が増す。いくつかの研究から、充分な甲状腺ホルモン剤治療は上記の合併症を、完全に抑えきれないけれども、ほとんどの場合これらの合併症を改善する(Montaro
et al. 1981)。一般的に、子宮内にヨード不足がなければ、甲状腺機能低下症女性の幼児は甲状腺機能異常もなく、健康である。全てに支持されているわけではないが、いくらかの研究では甲状腺機能低下症の女性から出産した幼児は周産期死亡率増加、先天性奇形、出産時低体重などの危険が増すという結果を報告している。しかしながら、貧血や栄養不足などの甲状腺機能低下症に随伴した他の医学的問題が存在するために、甲状腺機能低下症とそれらの問題との因果関係ははっきりしない。最後に、妊娠中に重症甲状腺機能低下症があると、生後もずっと続く精神神経的障害をもつ子供を出産する明らかな事実がある。これは、胎児が甲状腺ホルモンを自分で作り始める前の妊娠5ヶ月までに胎盤を通して母親から与えられる必要な甲状腺ホルモンの不足と関係している(Porterfield
and Hendrich 1993)。 |
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1990年以降、いくつかの研究で甲状腺機能は全く正常で抗甲状腺抗体のみが陽性の妊婦で、自然流産の頻度が高いことが報告された(Stagnaro-Green
1990)【図1】。要するに、これらの研究は次のことを示している。 |
- 自然流産の危険は妊娠3〜4ヶ月目までの妊娠初期に主に起こる。
- 流産の頻度は甲状腺自己抗体を持たない妊婦の2〜4倍高い。
- 自然流産の危険は習慣性流産(流産3回以上)の甲状腺自己抗体陽性者でさらに増す。
- これらの女性は、ときとして血清TSHが正常上限を少し越えているときもあるが、明らかな甲状腺機能低下症の症状は全くみられない。
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甲状腺自己抗体は流産の独立したリスクファクターのようである。例えば、抗カルジオライピン抗体、抗核抗体、抗リン酸抗体などの他の自己抗体とは流産は関連がない(Bakimer
et al. 1994)。
甲状腺自己抗体と妊娠初期の流産による胎児死亡の危険との間の因果関係は説明しうるか?最も納得しやすい説明は、甲状腺自己抗体の存在が全身の異常な免疫状態を示すサインであるというものである(Geva
et al. 1997)。しかしながら、現時点では他の説明も否定できない。この問題を解決するためには、さらに研究を必要とする。例えば、甲状腺ホルモン測定では分からないような軽度の甲状腺機能低下状態が生殖器において何らかの役割を果たしていることが推測される。さらに、我々の研究では自己免疫性甲状腺炎を持つ女性では自己免疫性甲状腺炎のない女性と比べて妊娠年令が2〜3年高いことが分かっている。この年齢差は統計学的にも有意な差である(Glinoer
et al. 1991)。ゆえに、自己免疫性甲状腺炎が生殖能力を妨げている可能性があり、そこで妊娠が遅れると思われる。年令が上がるにつれて自然流産の頻度も増加することは明確に確立された事実であるので、この仮説は証明はされていないが、臨床的意義があるかもしれない(Knudsen
et al. 1991)。 |
妊娠時の自己免疫性甲状腺炎と甲状腺機能低下症のリスク |
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1990年6月から1992年12月までの期間中に甲状腺疾患の既往のない連続した1660人の妊婦が甲状腺自己抗体、フリーT4(FT4)、TSH値を調べられた【図2】。自己免疫性甲状腺炎の頻度は6.5%(109人)であり、これは妊娠可能年令の女性の自己免疫性甲状腺炎の頻度と同じである。これらの患者の中で、16人はTSH値が4.0mU/L以上の甲状腺機能低下症であり、4人はTSH値が抑制されFT4値が正常上限の潜在性甲状腺機能亢進症であった。これらの20人については、後ほど述べる。当初、残り87人(5.2%)の妊婦が甲状腺自己抗体を持っていたが、血清TSH値とFT4は正常であった。甲状腺機能は妊娠中定期的にチェックした。妊娠中に甲状腺自己抗体価は予想通り低下したが、一部の人では甲状腺機能低下症になった。すでに妊娠初期(最初の3〜4ケ月)に、甲状腺自己抗体陰性の妊婦と比較して血清TSH値は正常範囲内ではあるが、有意に高めになっていた。出産時、自己免疫性甲状腺炎の妊婦の40%はTSH値は3.0mU/Lを越えており、その半数はTSH値4.0mU/Lを越えていた。妊娠初期には、自己免疫性甲状腺炎の妊婦はTSHの刺激により甲状腺機能を正常に保つことができていたのであろう。産後3日目のFT4はコントロールと比べて、有意に低下する。
平均して、FT4は30%低下し、自己免疫性甲状腺炎の妊婦の半分は甲状腺機能低下症のレベルまで低下する。これらの事実は、甲状腺ホルモン値が低下する妊婦は甲状腺の予備力がないことを示している。一番重要な研究結果は、妊娠初期に血清TSH値と甲状腺自己抗体価から甲状腺機能低下症への進展を予測できるということである(Glinoer
et al. 1994)。 |
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甲状腺機能亢進症に対して手術やアイソトープ治療後に起こった甲状腺機能低下症でないのなら、妊娠可能年令の女性で一番多い甲状腺機能低下症の原因は慢性甲状腺炎である。慢性甲状腺炎による甲状腺機能低下症には甲状腺が腫れるタイプと甲状腺が萎縮するタイプがある。住民検診でのデータでは、すべての妊娠の2.5%もの高頻度で診断されない潜在性甲状腺機能低下症が存在することが示唆されている(Klein
1991)。われわれの研究でも、同様に2.2%の診断されない潜在性甲状腺機能低下症(TSH: 4.0〜20.0mU/L)が存在することが分かっている。さらに、FT4は正常下限あたりに偏っている。これらの妊婦は妊娠初期のスクリーニングで診断され、妊娠中甲状腺ホルモン剤(T4:
50〜125マイクログラム/日<注釈:日本ではチラージンS>)の補充を受け、甲状腺機能を正常に保った。潜在性甲状腺機能低下症と診断された41人中16人で、甲状腺機能低下症の原因は慢性甲状腺炎であった(抗TPO抗体が400〜5000U/mlと陽性であった)。残り25人では、甲状腺自己抗体が陰性であり、甲状腺腫や甲状腺機能低下症などの家族歴もなく、慢性甲状腺炎との関連は証明できなかった(Glinoer
1997)。
既に甲状腺機能低下症の診断を受けている妊婦に対する妊娠中の甲状腺ホルモン補充量に関して、過去10年間に行われたいくつかの研究では妊娠中は甲状腺ホルモン補充量の調整が必要であることを示唆している。最も説得力のある報告はKaplan(1992)によってなされた。65名の過去に甲状腺機能亢進症で手術やアイソトープ治療後もしくは慢性甲状腺炎のために甲状腺機能低下症になった患者の甲状腺ホルモン補充量の研究により、Kaplanは妊娠前の甲状腺ホルモン補充量で治療していると妊娠中に血清TSH値が著明に増加することを示した。さらに、FT4が平均40%減少し、65名中13%では正常以下になった。そこで、甲状腺ホルモン補充量を40〜100マイクログラム/日増量することで、甲状腺機能は正常に戻る。出産後、甲状腺ホルモン補充量は妊娠前の量に減量できる。
この研究では甲状腺機能低下症の原因によって、妊娠中の甲状腺ホルモン補充量の増量が違うことも報告している。自己免疫性甲状腺炎による甲状腺機能低下症では妊娠に伴って甲状腺ホルモンの必要量が増えても、それに適応できるだけの予備力を備えているのに対し、手術やアイソトープ後に甲状腺機能低下症になった例では、妊娠時の変化に対応する予備力がないために、甲状腺ホルモン補充量を増量しなくてはならない。
妊娠中の甲状腺機能低下症患者に対する注意と管理は以下のような意見の一致したガイドラインがある(Glinoer
1997)。 |
- 甲状腺ホルモン補充量は、妊娠中の甲状腺機能低下症患者の少なくとも80%において増量すべきである。増量を必要としない患者は妊娠前の投与量が多すぎた可能性がある。
- 妊娠による甲状腺ホルモン需要量の大きな変化のために、甲状腺ホルモン補充量の増量は、既に妊娠初期(3〜4ヶ月)においてさえも必要である。ゆえに、妊娠初期に甲状腺ホルモン補充量の調整は時期を逸さず、行わねばならない。
- 甲状腺ホルモン補充量の増量は10%から150%まで大きく個人差があり、平均すると妊娠前の40〜50%の増量になる。だから、それぞれの症例で量を調節する必要がある。
- 定期的な診察と血清TSHとFT4の検査は必須であり、内分泌医と産科医の協力も重要である。
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妊娠中の自己免疫性甲状腺炎と甲状腺機能低下症のスクリーニング |
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妊娠中の甲状腺機能低下症のスクリーニングを提案することは次に上げる理由のために正当化される。 |
- 自己免疫性甲状腺炎と甲状腺機能低下症はともに若い女性ではよくみられる疾患である。
- 潜在性甲状腺機能低下症はたびたび見逃される。
- 産科的なリスクが甲状腺機能低下症と関連している。
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加うるに、次に示す根拠に基づいて、妊娠中の自己免疫性甲状腺炎の診断を勧める理論的根拠がある。 |
- 自己免疫性甲状腺炎を持つ妊婦は自然流産の危険が増している。
- 甲状腺自己抗体陽性の甲状腺機能正常妊婦は甲状腺機能低下症になりやすい。
- 妊娠した翌年に産後甲状腺炎の危険が増す(自己免疫性甲状腺炎患者の50%で何らかの甲状腺機能異常を示す)。
- 慢性甲状腺炎の女性は将来、甲状腺機能低下症になる危険があることはよく知られた事実である。
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次のようなフローチャートを提案した【図3】。まず最初のステップとして、妊娠初期、できれば12〜20週あたりに血清TSHと甲状腺自己抗体を測定する。理想的には、抗サイログロブリン抗体(TG-Ab)とTPO-Ab抗体価の両方を測定すべきである。しかしながら、経済的な問題でひとつだけと言われればTPO-Ab抗体が望ましい。何故なら、TPO-Ab抗体は自己免疫性甲状腺炎患者の75〜80%で陽性であり、一番鋭敏な指標である。もし、血清TSH値が2mU/L以下で甲状腺自己抗体陰性なら、それ以上の検査は必要ない。血清TSH値が4mU/L以上なら、甲状腺自己抗体の有無に拘わらず、患者は甲状腺機能低下症と考える。このような症例では、血清FT4、特に甲状腺の腫れをみるための超音波、場合によってはTRH試験を行う。これらの検査に基づいて妊娠中の甲状腺ホルモン治療が決められ、甲状腺機能検査は2〜3ヶ月毎にチェックされる。そのような女性は産後も引き続き観察される。フローチャートの2番目のステップは、甲状腺自己抗体陽性の女性に焦点を当てる。この状態では、治療の決定は妊娠初期の血清TSH値に依る。TSHが2.0mU/L以下なら(多くの場合、このような症例では甲状腺自己抗体価は低い)、甲状腺ホルモン治療は正当化されない。
我々は妊娠6ヶ月時に、血清TSH値は測定すべきであり、産後にも経過観察すべきと考える。反対に、甲状腺自己抗体陽性でかつ妊娠初期に血清TSH値は正常であるが2〜4mU/Lの妊婦に対しては(多くは甲状腺自己抗体価が高い傾向にある)、FT4を測定し、FT4値が正常以下か正常下限なら、妊娠の残りの期間を50〜100マイクログラム/日の甲状腺ホルモン治療によって、甲状腺機能を正常に保てると考える。当然のことながら、これらの女性は産後もずっと経過をみる必要がある。
妊娠中に潜在性甲状腺機能低下症に対して治療することの有用性については、まだ直接的な証拠はないので、将来は前向き研究をして、このフローチャートの適切性を示す必要がある。しかしながら、間接的な証明は甲状腺ホルモン治療は害はなく、有益のみであることを強く示している。 |