熊本水前寺バス停発7時12分の鹿児島行き「なんぷう号」は、定刻より2〜3分遅れて到着した。前夜は、就寝が午前1時半で起床が午前5時半であったので、まだ眠い。しかし、バスの中でゆっくり寝ればいいだろうと甘い考えをしていた。バスに乗ってから、おもむろにプロレス雑誌「ゴング」を取り出し、読み始めた。何か、急に吐き気がしてきたために、どうしたのだろうと窓の外を見ると、熊本インターの入り口で大きくカーブしているところであった。多分、三半規管の働きが悪いために、平衡感覚がうまく作用していないのであろう。しまったと思い、本を読むのを止めすぐ目を閉じて寝る体制に入った。昔、バスに酔っていた頃の記憶が脳裏をかすめた。知らぬ間に、寝入ってしまい、気づいたら八代インターであった。ここからは人吉経由で鹿児島空港に一直線である。
鹿児島空港に到着したのが、午前9時半。すばやく搭乗手続きを終えて、出発ロビーで待機。ここで、大阪から直接、合流する長男と待ち合わせ。定刻(午前10時10分)を少し遅れて大阪からのJAS機到着。夏以来の長男との遭遇。彼女に編んでもらったマフラーを自慢げにしているヤローがちょいと憎らしげ。わしの悲惨な青春時代が、またしてもアタマをもたげてきて、幸せそうなやつを見ると、ねたみが生ずる。カッコつけやがってと思いながらも、一応父親としての威厳も保つ必要あり。待合いの席の前が丁度、喫煙所であり、その煙で気分が悪くなってきた。JASに言いたい。空港内はすべて禁煙にすべし。禁煙ルームを作るべし。機内は、すべて禁煙になったのだから、そこまで徹底して欲しい。一利用者の意見である。そうこうしているうちに、午前10時45分発の屋久島行きが機内清掃のため、5分ほど遅れるとのアナウンスあり。このあたりは、すでに屋久島時間になっているなと思って、納得する、わし。
屋久島行きの飛行機はすべて、JAC(日本エアーコミューター)というJASの子会社である。ANAに対するANKみたいなものである。このJACは、熊本の天草に不必要な空港を作った悪名高き会社でもある。そのような会社の飛行機であるが、それしかないので文句も言わず乗る(当たり前じゃ)。飛行機は今の時代では、ほとんどお目にかからないYS-11である。しかし、こいつはプロペラが一つ止まっても墜落しないと言う伝説の飛行機だから安全であると自分に言い聞かせる。飛行時間は約30〜40分くらいであろうか。高度は2400mで超低空飛行である。低いところを飛んでいるのであまり恐怖感はない。屋久島が見えてきた。飛行機は、右手に屋久島を見ながら進み、空港を少し過ぎたあたりで180度旋回して、着陸態勢に入る。軽量のYS-11なので、ソフトランディングである。飛行機を降りると、暑い。やはり、南国じゃい。飛行機の中ですでに半袖のTシャツ姿になっていたが、そのままでも寒さを感じない。でも、風邪をひくと、明日の縄文杉に悪影響が出るので、一応トレーナーを着る。
空港を出て、バスで「いわさきホテル」に直行しようと思っていたが、時間的にチェックインには早すぎる。昼食を食べて、ホテルに入ることに決めた。それなら、タクシーでということになり、タクシー乗り場に行くと、昨年案内してくれた鎌田さんという運転手さんがいた。こちらは憶えていたが、あちらは忘れている模様。これは、医師と患者の関係に似ているなと思った。医師も患者さんの顔を全員、覚えてはいない。だから、当然のことと納得する。早速、地元の人が行く店に連れて行ってもらった。観光ガイドブックに載っているところは、高くておいしくないのはどこも一緒である。これは、ものすごい独断と偏見ですので、気を悪くしないでもらいたい。なんせ超個人的な旅行記だから、許されると勝手に思う。
タクシーが、なぜ停まったのか不思議に思っていると、鎌田さん曰く、着きましたと。えっ、どこ?と思った。「若竹」というその店はのれんも出していない。なんせ、のれんがないのである。少し、不安を覚えながらも、店内に案内されて、入った。客が数人いて、昼食を食べていた。ちゃんとした店なんだと安心する。行く途中で、予約してくれていたので、すでに席はできていた。刺身、天ぷら、あさひガニなど量も多く、味もさいこ〜。ビールの中瓶を飲む。値段は、一人前3000円であった。リーズナブルな値段と思った。ほろ酔い気分で、屋久杉自然館【写真1】に行って約1時間、館内を観覧する。昭和30年代の貴重なフィルムを見る。小杉谷の集落には、最盛期に500人以上の人が住んでいたそうだ。小学校もあり、生徒も100人を越えていたそうだ。屋久杉伐採事業が衰退してきたために、昭和45年にはこの集落も閉鎖された。そのころの交通機関がトロッコであった。日曜日は、トロッコに乗って、家族で安房の町に買い物に行くのが楽しみであったようだ。あのトロッコ道を、明日は歩くのだなと思いながら、ビールの酔いが回ってきたせいか眠くなる。ところどころ、眠っていたようである。外に出ると、昔使っていたトロッコ【写真2】を展示してあった。
ホテルに着いたのが、午後5時を過ぎていた。昨年、宿泊したのと同じ「いわさきホテル」である。このホテルの一階のホールは6階まで吹き抜けになっていて、屋久杉のレプリカ【写真3】がある。約7000万円かけてアメリカの会社に作成してもらったことが説明文に書いてあった。さすが、金持ちのやることは、贅沢じゃい。このホテルのロビーから見た景色も絶品である【写真4】。早速、温泉に入り、明日の縄文杉に備えて鋭気を養う。前夜は軽い食事の方がいいのに、6000円の和洋折衷コースを注文してしまう。食事が午後7時からだから、食べて寝るまでの時間があまりないため、体には超悪い。明日が不安。就寝は少なくとも午後10時までと思っていたが、メールのチェックをしていたら、結局、寝たのが午後11時過ぎ。起床は午前4時の予定。長男は、慢性腎炎の持病があるので、明日はホテルで一人留守番。明後日、原生林を歩く軽いコースに参加予定。わしら夫婦も余力があれば、それに参加することにした(結局、予定通り、わしだけ参加できず。縄文杉の後遺症のため)。
午前4時に起床。洗顔、歯磨き、洗髪、用足しなどしていたら、すぐ午前5時がくる。ホテルに鎌田さんが迎えに来てくれることになっている。昨日行った屋久杉自然館に午前5時半集合予定。前日、頼んでおいた朝食と昼食を途中の弁当屋で受け取っていたところに、丁度、ガイドの大野さん【写真5】が他の4人の参加者をマイクロバスで乗せて来て、弁当をもらっていたところであった。他の4人の人は、年齢20歳前半の女性2人組、年齢30歳代前半の夫婦。若い人たちに、中年のおやじとおばさんが参加したことになる。できれば、同じか、少し年齢がいった人がいてくれたらな〜と思う。ここから、大野さんのマイクロバスに乗り換えて、荒川登山口まで約30分。荒川登山口に着いてからバスの中で、朝食の弁当を食べる。真っ暗で、何がおかずなのかも分からない。でも、エネルギーを入れておかねばならないので、無我夢中で食べる。もう味わう暇はない。まだ、暗いけれど外に出て、大野さんの指示のもとに柔軟体操を始める。体が硬いのが、もろにばれる。この先に暗雲が垂れ下がる。
午前6時40分出発。トロッコ道に入る前に橋があるのだが、これが凍っていてすべりやすい。そこで、みんなに遅れた。追いつくのに、10分以上かかった。まず、小杉谷小学校前【写真6】で休憩。ここがトロッコ道の1/3(2.8km)の地点らしい。まだ、冗談を言う余裕があった。この近くには小杉谷事業所跡がある。ここは、屋久島営林署の前進基地であり、大正12年から昭和45年まで営業していた。今は、「つわものどもが夢の跡」である。かつての繁栄を偲ばせるものは、何もない。一時は500人以上の人が暮らしていた民家も解体して、町の人が買ったそうである。なんせ、すべて屋久杉でできていたらしいので価値のある家であった。解体して、建て直したそうである。
10分ほど休憩して、出発。みんな無言でモクモクとただ歩く。午前9時までにトロッコ道を歩ききらないと縄文杉には到着できないとのこと。先を急ぐのである。常に、わしら夫婦が少し遅れ気味になる。やはり、年の差か。途中、三代杉の説明を受けた。樹齢3500年。現在の3代目の樹齢は500年だそうである。疲れのためか、説明もうわのそら。また、モクモクとただ歩く。本当に何も考えないで、ただ歩いた。やはりトロッコ道【写真7】は添え木があるので歩きにくい。気を付けないと添え木に足を引っかけて、つまずく。こんなところでリタイアーは絶対できないので、慎重に歩く。予定通り午前9時前に大株歩道入り口に到着【写真8】。ここまでの距離が8.3km。時間にして2時間少し。順調である。トロッコ道が終わったところで、休憩と思っていたら一気に急坂に入る。
最初の難所である。トロッコ道から大株歩道入り口のところで休むと、この急坂が登れないそうである。ここで、エネルギーの消失が激しかった。ウィルソン株【写真9】まで一気に登る。1586年に豊臣秀吉が島津氏に命じて、京都東山に建立する方広寺大仏殿の用材として伐採させた切り株と言われている。樹齢3000年である。この頃までは、まだデジカメで撮影する余裕があった。このあと、縄文杉までは自分のデジカメでは撮っていない。この後の縄文杉までの画像は、わしに比べるとまだまだ余裕のあるカ〜チャンが撮った写真を拝借することにする。デジカメでないので画像が悪いですが、ご容赦ください。
ウィルソン株から第2の難所ありとのこと。ここで大体リタイアーする人はするらしい。ここを、どうにか登れたので、少し元気になった【写真10】。実はここからが、自分にとっては、一番きつかったのである。ウィルソン株あたりから雪が残っており、滑りやすい状態で怖かった【写真11】。下りはどうなるのだろうと不安がよぎる。ここから先の記憶はかなり飛んでいる。多分、疲れから来る脳への血流低下が原因であろう。疲れていたのはこの【写真12】の後姿を見れば、一目瞭然である。途中、大王杉や夫婦杉などの樹齢2000〜3000年の屋久杉を通過するも、じっくり見る余裕もなく登っていく。一度は、一瞬頭が真っ白になって、足が動かなくなりそのままペタリと尻餅をついた。たまたま、雪の上であったから怪我せずに済んだ。もう一度は、縄文杉まであと10分くらいのところの下りの木の階段の途中でへたり込む。後ろから来ている人に道を譲る。ここでもうダメかと思うも、ここまで来てリタイアーしたら一生後悔すると思い、気持ちを奮い立たせてまた歩き始める。人の笑い声が聞こえてくる。すぐそこに縄文杉がある。ついに、来たかと最後の力をふりしぼって、展望台の階段を這うようにして登った。事実、雪が凍っていて、すべりやすく階段の手すりにつかまって登った。階段を登り切ったら、目前に縄文杉があった。ついに縄文杉に会えた〜。感激で、しばらく放心状態であった。カ〜チャンは早速、弁当を食べ始めた。おにゃごは、さすがに逞しいのう。わしも、雪の上にへたり込んで弁当を食べる。食べ終わったときには、元気が出ていた。異常にきつかったのは、どうも低血糖ではなかったのかと思う。大野さんが入れてくれたコーヒーを飲んで、息を吹き返した。さあ〜、これから縄文杉を撮りまくるぞ〜。縄文杉にいる時間は30分間しかない。あと10分である。まず、縄文杉の前で記念撮影【写真13】【写真14】【写真15】。やはり、縄文杉は神々しさを漂わせていた。何十世紀もの間を生きてきたのだなあ〜と感慨深げに眺める。よく、ここまで来られたものだと自分でも感心していたら、下山の時間になった。なんせ、縄文杉での時間はせわしいのである。日が暮れるまでに荒川登山口まで降りなければいけない。帰り道も急いで下っていかなければならないのである。下りもどうしても、遅れ気味になる。みんなが待ってくれている、追いつく、出発。これの繰り返しで、結局あまり休む時間はない。体力的には、下りの方がずっと楽であるが、滑りやすいのでゆっくり下った。下りは、いろいろな景色を見る余裕があった【写真16】。ただ、みんなより常に遅れていただけであった。これは、自分のペースなので無理しないようにした。トロッコ道に出てからは、いっそうスピードが上がった。もう、まったくついていけない。自分のペースで来た道を降りていった。トロッコ道は緩い傾斜があり、登りより楽と思ったが、膝にきているせいか帰りのトロッコ道はきつかった。
荒川登山口に着いたのは、午後5時に5分前。滑り込みセーフ。マイクロバスで屋久島タクシー安房営業所まで載せていってもらい、そこで鎌田さんが待っていた。タクシーでホテルまで20〜30分間。もうクタクタの状態であった。
その夜は、夕食を済ませるとすぐ寝た。午前0時ころ、筋肉が痛くなって目覚めた。湿布を貼るのも忘れて寝ていたのである。湿布を合計10〜12枚貼った。湿布を貼ると楽になった。朝は、午前4時に起床し、温泉に入った。筋肉痛には温泉はいいものだ。縄文杉に会えた充実感のために、筋肉痛もそれほどの苦痛には感じなかった。
中年男が、ある日突然、屋久島の縄文杉に挑戦しようと決心したのが、昨年の秋のことであった。決心した日から一応、毎日朝夕、ステップ踏み式の運動器具で運動し、計6kgのダンベルを100回ずつの課題を課した。効果は出て、突き出ていた腹は少しはへっこんだ。縄文杉の挑戦が終わった今も、生活の習慣になっており、今でも朝夕の運動は続けている。しかし、縄文杉には、もう会わないであろう。一生に一度、会うのがいいのである。その感動を、持ち続けるのがいいのである。あこがれの縄文杉は、死ぬまでに一度会いたかった。40歳代が限界と思っていた。今度、縄文杉に挑戦しようと思い立ったのもそれがあったかもしれない。昨年9月7日の48歳になったころ、思い立ったのである。50歳という年を意識していたのであろう。
超個人的な手記ですが、敢えて公開させていただきました。甲状腺とは、まったく関係のないものですがお許しください。20世紀最後の思い出です。 |
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