妊娠中および産後の甲状腺の病気は普通に見られます。<第3章>で述べたように、甲状腺疾患の家族歴がある女性は、統計学的に妊娠初期の3ヶ月間と産後の最初6ヶ月間に、バセドウ病や橋本甲状腺炎のような自己免疫性疾患に罹りやすくなっています。バセドウ病や橋本甲状腺炎、そして産後甲状腺炎は妊娠中と産後にいちばん多い甲状腺の病気です。産後甲状腺炎は最近発見された病気で、甲状腺機能亢進症と機能低下症の両方の範囲にまたがっています。この病気は産後2〜3ヶ月で起こることが多いのですが、甲状腺組織を損傷する抗体が作られるようです。そのため、血液中に甲状腺ホルモンが流れ出し、甲状腺機能亢進症が起こります。回復期の前には、甲状腺ホルモンのレベルが下がり、一次的、あるいは永久的な甲状腺機能低下症を生じることがあります。この病気は普通に見られ、産後の女性全体の8から10%に起こるため、普通、すべての女性に対して産後の甲状腺検査が行われます。産後にまだ検査を受けていない場合は、医師に頼んでしてもらうようにしてください。もっと詳しいことは<第4章>をご覧ください。 |
結節や甲状腺腫、またその他の甲状腺に関連した病気が、時に妊娠中に起こることがありますが、これはそれ程多くありません。このことはこの章の後の方で述べることにします。妊娠についてもっと詳しい情報が必要な方は、私の本“妊娠のことがわかる本”をお読みください<注釈:原書は、M
Sara Rosenthal ; The Pregnabcy Sourcebook, 2nd ed.,1997, Lowell Houseです>。 |
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甲状腺機能低下症の治療を受け、妊娠を試みている場合は、その間に甲状腺ホルモンレベルのチェックをもう一度行ってもらうようにしましょう。甲状腺ホルモン剤の量が十分であることを確かめるには、甲状腺機能検査(遊離T4レベル)とTSH検査の両方をしてもらってください。そうすれば、妊娠中にあなた自身と赤ちゃんに生じうるあらゆるリスクを最小限に留めることができます。妊娠した時はいつもより疲れを感じるのが自然であるため、甲状腺機能低下症によって起こる疲労により、エネルギーレベルが著しく低下することがあります。繰り返しますが、妊娠の症状が甲状腺の病気を隠していたり、その逆のことがないか確かめることが大切です。 |
放射性ヨードで甲状腺機能亢進症の治療を受けている場合、妊娠は6ヶ月ほど先に伸ばさなくてはなりません。用心のため、医師は放射性ヨードを投与する前に、まず妊娠していないかどうかを調べます。 |
最後に、抗甲状腺剤を飲んでいて、妊娠の予定がある場合は、その薬を飲んでいる間に妊娠する方が、医師の監督下にある限りは安全なことがあります。この薬は、甲状腺刺激抗体(TSA)から胎児を守ると思われるためで、この抗体は胎盤を通じて母親から赤ちゃんに行くことがあるからです。 |
妊娠中の正常な甲状腺機能はどのようなものでしょうか? |
妊娠中に甲状腺がわずかに大きくなるのは正常なことです。これは胎児が母親からヨードを奪うためです。もう一つ起こることは、母親は妊娠中により多くのヨードを尿から失うようになります。甲状腺が大きくなるもう一つの理由は、ヒト絨毛膜性生殖腺刺激ホルモン(hCG)によるものです。このホルモンは胎盤で作られ、甲状腺を軽度に刺激することがあります。研究者は、hCGがTSH(甲状腺刺激ホルモン)の分子構造に非常によく似ていることを発見しました。事実、古代エジプトでは若い嫁の首に細い紐を巻きつけるしきたりがあり、その紐が切れると妊娠したということを意味したのです。しかし、用心のため、ちょっと大きくなった程度の甲状腺、あるいは甲状腺腫はかならずチェックしてもらうようにしましょう。母親のヨード欠乏がひどくなればなるほど(特に、ヨード欠乏地帯に住んでいる場合)、甲状腺はもっと大きくなります。 |
正常で、健康な妊婦に頻脈や心悸亢進、発汗、そして暑さに弱いなどの甲状腺機能亢進症をうかがわせる症状が出ることがよくあります。これは妊娠で代謝速度が速くなるからです。それでも、甲状腺機能亢進症は妊娠1000回に1回しか起こりません。妊娠した体がより高レベルのエストロゲンを分泌するため、妊娠中は甲状腺ホルモンレベルも上昇します。これは、血液中でサイロキシンをそこに留めておく結合タンパクの量が増えるためです。しかし、組織が利用できるサイロキシンの量は増えません。そして、甲状腺ホルモンのレベルが上がっても正常な妊婦では甲状腺ホルモンの産生を妨げることはありません。 |
赤ちゃんの甲状腺は妊娠10週目と12週目の間に機能しはじめます。甲状腺ホルモンは、胎児の神経系の発達に大切なものです。この時期のホルモンは主に胎児の甲状腺から分泌されるものです。母親の甲状腺ホルモンは、ほんのわずかの量が胎盤を通るだけです。 |
母親の食餌中に含まれるヨードも胎盤を通り、胎児の甲状腺で甲状腺ホルモンを作るのに使われます。ヨード欠乏は、新生児の甲状腺機能低下症あるいは精神発達遅延を引き起こすことがあり、発展途上国での大きな問題になっています。しかし、北アメリカではヨードが食餌中にたっぷり含まれているため、食餌性ヨード欠乏による疾患はここでは起こりません。
胎児の甲状腺疾患については、<第9章>で述べます。 |
妊娠する前から、甲状腺機能低下症であるか、甲状腺の病気で甲状腺ホルモン剤を飲んでいる場合は、通常の治療に使われる甲状腺ホルモンのサイロキシンはそのまま飲んでも差し支えありません。サイロキシンは胎盤を通じて母親から胎児にいくことはほとんどありません。時に、妊娠中にサイロキシンの必要量が増えるため、投与量を変える必要がある場合もあります。投与量を40から50%増やすのが普通です。このような場合は、いずれにせよ医師がTSHレベルをモニターするのが普通ですし、必要に応じて量が増やされます。 |
妊娠中に甲状腺機能低下症が疑われた場合は、医師がTSH検査を行うことになります。妊娠していない女性とまったく同じで、甲状腺機能低下症であれば、TSHレベルが上がっており、サイロキシンで治療を受けることになります。時に、妊娠それ自体が甲状腺機能低下症の症状を隠してしまうことがあります。例えば、便秘やむくみ、疲労などは全部妊娠の特徴なのです。このような徴候がでた場合、甲状腺機能低下症はおそらくそれほどひどいものではないと思われます。しかし、出産後も症状が残ります。 |
妊娠中の甲状腺機能亢進症は、もっと複雑です。そして、大体バセドウ病が原因で起こります。しかし、妊娠中の甲状腺機能亢進症の診断や治療には、胎児や母親にいくつか特別な考慮を払う必要があります。甲状腺機能亢進症を治療しないでいると、流産や死産のリスクが高くなります。1995年の研究では、抗甲状腺抗体のある女性の流産のリスクは32%であるのに比べ、そうでない女性では16%であることがわかりました。流産のリスクは年齢が高くなるにつれても上がってきます。さらに、この病気が治らずにいたり、妊娠後期になって初めてわかったような時は、母親と赤ちゃんに対する全体的なリスクが増加します。 |
妊娠していない女性と同じように、特有の甲状腺機能亢進症の症状により病気があることがうかがえるのが普通ですが、ここでも暑さに弱いとか、心悸亢進のような古典的症状のいくつかは典型的な妊娠の特徴を反映していることがあります。目が飛び出したり、甲状腺腫が現れてくるようなことは、バセドウ病の存在をうかがわせるものですが、放射性ヨードスキャンや治療は妊娠中には決して行えませんので、甲状腺機能亢進症は血液検査を通じてしか確かめることができません。 |
放射性ヨードスキャンが妊婦に対し、うっかり行われることが時にあります。これは妊娠に気づいていない時に起こる可能性があります。例えば、経口避妊薬を飲んでいる女性でも妊娠することがありますし、あるいは本当はプラスなのに妊娠初期の妊娠検査がマイナスに出ることもあります。しかし、妊娠が明らかにわかる段階にある場合や自分ではっきり妊娠がわかっている場合は、有能で、きちんとした資格のある医者が放射性ヨードスキャンを勧めるようなことはありません。しかし、妊娠初期(最初の3ヶ月間)に甲状腺スキャンを受けた可能性がいくらかでもあるような場合でも、スキャンのみに使われた放射性ヨードの量では、胎児に害を与えることはありません。事実、この場合に胎児に入るであろう放射性ヨードの量は、私たちが普通に呼吸している大気中に存在する自然放射能の量をかろうじて超える程度のものでしかありません。 |
その一方で、放射性ヨード治療が妊娠初期にうっかり行われてしまった場合、その放射線の量は胎児に傷害をおよぼすに十分なものとなり得ます。このような場合は、カウンセリングを受けなければなりませんし、治療的妊娠中絶を考えることもあろうかと思われます。この中絶は合法です(しかし、このような状況下でもまったく正常な子供が生まれているということも言っておく必要があります)。 |
巡り合わせが悪く、放射性ヨード治療がたまたま妊娠の最初の3ヶ月以降に行われた場合、赤ちゃんの甲状腺はおそらく破壊されると思われます。しかし、これは生まれてから甲状腺ホルモン補充療法により治療できます。このようなケースでは、妊娠中絶をする必要はないでしょう。このような間違いは、特異な状況であったとしてもきわめてまれなことです。時に、検査室での取り違えが起こったり、試験管がどれが誰のかがわからなくなることがあります。この種の取り違えは、胎児が小さく、妊娠の徴候がなく、妊娠に気がついていない女性に限って起こることがあります。 |
そうでなければ、それ以外の妊娠中の甲状腺機能亢進症のケースはすべて、抗甲状腺剤で治療されます。プロピルチオウラシル<注釈:日本ではプロパジール(チウラジール)>またはメチマゾール<注釈:日本ではメルカゾール>がいちばん多く使われますが、プロピルチオウラシルの方がメチマゾールほど胎盤を通りやすくないため、妊娠中はこちらの方がよく使われます<注釈:プロピルチオウラシルとメチマゾールの胎児甲状腺機能を抑制する作用は同じと考えられています。一回投与の場合に限り、プロピルチオウラシルの方が胎盤を通過しにくいが、ずっと飲む場合は胎盤通過は同じである>。妊娠中に投与される抗甲状腺剤は、まず甲状腺機能亢進症をコントロールするために使われます。その後は、甲状腺ホルモンレベルを正常範囲内の高い方の値、あるいはリスクを伴わない最大値に維持する最低の用量を投与することが目的となります。こうすれば、用量が少なくなるので、赤ちゃんへのリスクが最小限ですみます。抗甲状腺剤を低用量で投与するもう一つの理由は、妊娠中は母親の免疫系の働きが抑えられているので、低用量であれば、高用量を投与した時ほどには赤ちゃんに影響がないと思われるからです。用量が高くなれば、薬が胎盤を通じて赤ちゃんの血液中に入り、最終的に赤ちゃんの甲状腺に影響を与える可能性があります。TSAも胎盤を通るため、胎児の甲状腺機能亢進症を起こす可能性があります。これはきわめて危険であり、胎児が死亡することさえあります。したがって、プロピルチオウラシルは、胎児の甲状腺を抑制することで、実際に胎児のためになります。 |
時に、プロピルチオウラシルにアレルギーであることに気がつく女性がおります。このようなことが起きた時は、代りにメチマゾールが使われます。どちらの薬にも問題がある場合、甲状腺切除術が妊娠中期に行われることもありますが、これはまれです。一般的に、流産を誘発する可能性があるので、妊娠中の手術は避けられます。 |
甲状腺機能亢進症が妊娠が進むにつれて軽くなってくることがよくあります。このようなことが起きた場合は、産み月が近くなるにつれて、抗甲状腺剤を徐々に減らしていくことができます。そして、出産後に甲状腺の機能が正常に戻ることが多いのです。 |
妊娠中の甲状腺機能亢進症の原因がバセドウ病である時は、重症の甲状腺機能亢進症になったり、陣痛や出産時の合併症が起こるのを防ぐため、妊娠全期間を通じて甲状腺機能亢進症のコントロールを行う必要があります。プロパナロールのようなベータ遮断剤がプロピルチオウラシルに加えられますが、これは授乳中に飲み続けても安全です。 |
妊娠中にしこりが甲状腺に見つかった場合は、妊娠のどの時期かによって検査や治療のやり方が異なります。妊娠第1三半期(最初の3ヶ月)であれば、そのしこりが悪性か良性かを確かめるために、針生検が行われます。悪性であれば、手術がおそらく第2三半期(妊娠4ヶ月から6ヶ月)に行われることになるでしょう。この時期は手術を行うのにもっとも安全な時期と考えられています。第2三半期に癌性の結節が確認された場合、その時期であればまだ手術することが可能です。そうでなければ、出産まで待つ必要があります。<第6章>で述べたように、甲状腺癌の発育は非常に遅いので、2〜3ヶ月長く待ったとしても、全体の治療の筋書きに違いが生じることはありません。 |
しかし、結節が第2または第3三半期(妊娠7ヶ月以降)に初めて見つかった場合は、検査や治療はおそらく出産まで待つことになるでしょう。その後であればスキャンを行うことができるからです。 |
<第4章>で述べたように、出産後、バセドウ病や橋本甲状腺炎のような自己免疫疾患がいきなり出ることがあります。これは特に甲状腺疾患の家族歴がある人に多く見られます。これらのケースでは、どちらの病気に対しても通常通りの治療を受けることになります。しかし、出産後にバセドウ病を発病した場合は、プロピロチオウラシルが母乳に出ることはないため、授乳を中止する必要はありません。妊娠中にバセドウ病を発病した場合は、抗甲状腺剤を続けなければ、出産後に病気が悪化することがあります。 |
妊娠の前に、バセドウ病の診断を受け、治療がうまく行っていた場合、時に、出産後に再発することがあります。しかし、出産後のバセドウ病のひどさにもよりますが、授乳が終わるまで、治療を延ばした方がよい女性もおります。 |
産後甲状腺炎は、すべての産後の女性の5から18%に起こり、6から9ヶ月続くものですが、産後うつ病やマターナルブルー(産後のうつ病)の隠れた犯人であることがよくあります<注釈:これに関しては情報源/患者情報[003]<1>を参考にしてください>。しかし、出産後最初の3ヶ月間に出る、疲労や抑うつ、記憶力減退、および集中力低下のようなマターナルブルーの症状はよく見られるものであり、女性の甲状腺ホルモンレベルとは無関係なことが多いということは頭に入れておくべきでしょう。さらに、産後に情緒的障害のある女性がすべて甲状腺の病気に罹っているわけではありません。最近、産後精神病(重症ですがまれな精神疾患です)になった女性グループに対する臨床研究が行われました。この研究では、何らかの甲状腺の病気がある女性は一人もおりませんでした。それにもかかわらず、あなたまたは誰かが産後に情緒的な障害を経験しているのであれば、念のため甲状腺の検査を受けるのはまったく理にかなったことです。 |