ロンのような多くの患者では、やっと診断がついた時に詳しい病歴を採取すると、おそらくそれが病気の引き金になったと思われる大きなストレスのかかる出来事が見付かります。そして時には病気とはあまり関係なさそうな出来事もあります。医師は患者の症状をこのような出来事のせいにする可能性があります。このような誤診、あるいは診断をしようとしないことが症状を長引かせ、最終的にはストレスをエスカレートさせ、永久的なものにしてしまいます。医師はしばしば“ゴルディウスの結び目(解けない難問)”に直面します。症状が主に甲状腺ホルモンバランスの乱れのためであるのかどうか推測することしかできません。しかし、病気の根本を治療するか、この悪循環を断ち切る方法を見付けない限り、症状は永遠に続きます。 |
症状の悪循環のほとんどは患者の診断がつく前に根づいてしまいます。ストレスのかかる出来事で軽い機能障害が引き起こされ、それがさらにストレスがかかることでひどくなっていきます。ストレスがさらにかかることで病気になり、それがもっとひどいストレスになっていきます。一つの病気がまた別の病気を引き起こし、それがまた最初の病気に悪影響を与えるというのが、医師が甲状腺ホルモンバランスの乱れの診断や治療の際に直面することです。それでも、この悪循環のエスカレートは、医師と患者がそのことをもっとよく知るようになれば、初期の段階で簡単に止めることができるものです。甲状腺ホルモンバランスの乱れを早期に診断し、それに関連したストレス問題に取り組むことでこの悪循環を断ち切るようにすれば、不必要な身体的、精神的苦しみや、個人的な問題、そして過度のストレスがかかるのを予防することができ、患者の回復を早めることができるのです。 |
キンバリーの甲状腺疾患との闘いは、患者にとってこの悪循環の拡大が大変な危険をもたらすことをはっきり示すものです。魅力的な34歳の女性であるキンバリーは、彼女がかかっていた婦人科医からバセドウ病ということで私のもとに紹介されてきました。キンバリーは彼女の症状が2年ほど前、新しい仕事に就いて約4ヶ月経った頃に始まったと信じていました。その前は幸せで、のんびりしていたんですよ。
彼女はこう言いました。 |
私はその仕事がマネージメントでの私のキャリアをさらにアップすることになると考えました。しかし、そのプレッシャーは大変なものでした。何とかついて行こうと頑張りましたが、だんだんその仕事が自分に向いていないことに気がつき始めました。自尊心が傷付き始めました。 |
私はストレスでまいってしまい、不安になり落ち込んでしまいました。いつも気分が悪く、疲れきっているみたいでした。そのため私は冬の間ほとんど病気ばかりしていました。私は職場では喧嘩腰になり、協調性がなくなってきました。そして、家庭でも怒りっぽく、ちょっとしたことにオーバーに反応するようになりました。主人は私が神経衰弱に罹っていると考え、精神科に診てもらうべきだと言い張りました。 |
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キンバリーは次々に起こる出来事で、だんだん身動きができなくなってきました。これは多くの甲状腺疾患患者が診断を受ける前や受けた後でも悪影響を受けることですが、時には何年にもわたって続きます。精神科医は彼女を抗鬱剤で治療しましたが、これは甲状腺の活動し過ぎがある患者ではさらに具合が悪くなることがあります。キンバリーは目の回りの腫れとやせたのに気付きましたが、自分の世界がバラバラになってしまいそうな問題に比べると、そのような症状は大したことがないように思えたため、無視しました。抗鬱剤は効きませんでした。そこで精神科医はキンバリーに抗不安剤を出しました。その間、彼女の自信は日々の仕事の中でだんだん崩れて行き、生活のあらゆる場で屈辱を受けるようになり、結局クビになってしまいました。 |
この時点でキンバリーは、「気も狂わんばかりになりました」という表現を使っています。彼女はいろいろな仕事の面接をたくさん受けましたが、自信もなく、目標も定まっていない状態でした。誰も彼女を雇う人はいませんでした。この空虚さを埋めるため、山のように家事をこなそうとして、どれもうまくできなかったのです。彼女の夫は、子供達の活動の世話を引き継がなければなりませんでした。夫との口喧嘩がキンバリーの日常生活の一部となりました。失職し、収入が減ったことが結婚生活の緊張の元になりました。時々、彼女は脈が速く打つようになり始め、心臓病専門医に診てもらいました。医師は彼女の症状はストレスによるものと診断しました。彼女を診ていた精神科医はキンバリーに震えが起こっているのに気付き、神経科医の診察を受けるよう勧めました。検査結果はマイナスでした。それでも、キンバリーは「私は泣きました。どこも悪くなくても構わなかったんです。ただ誰かに助けて欲しかったんです」と言いました。 |
キンバリーの病気はだんだん悪化していきました。新しい仕事のストレスが彼女のバセドウ病を引き起こしてから、その後気分障害が起こり、医師には彼女の病気の元がはっきりわからなくなるまで、個々の症状が必然的に次の症状につながるという状態でキンバリーは何度も甲状腺疾患の回りを回っていたのです。ストレスに続いてうつ病が起こり、それが免疫系を乱して活動し過ぎの甲状腺をさらに悪化させ、自分の行動をコントロールできなくなって自尊心が失われていきました。そしてそれがさらにストレスを生み出すことになったのです。この悪循環は独りでに増強していきました。 |
観察力の鋭い婦人科医がキンバリーの甲状腺を検査することを考えた最初の医師でした。キンバリーの甲状腺疾患を治療し、ストレスの問題に取り組むことによって、最終的にこのストレスの悪循環を断ち切ることはできますが、それはすぐにできることではなく、簡単なことでもありません。精神的な苦しみが脳の化学作用に悪影響を与え、キンバリーを感情的に変化させてしまっていました。彼女は器質的な変化を来たしていました。彼女の甲状腺ホルモンレベルを正常に戻すのに何週間もかかりました。キンバリーは家族の支えとよい治療、そして抗鬱剤を通じて、徐々に平衡状態を取り戻してきました。残念なことですが、彼女と医師の両方が甲状腺疾患の精神−体の症状を混同してまごつくことさえなければ、彼女のトラブルを止める機会はたくさんあったのです。 |
ごく最近まで、研究者はストレスがバセドウ病の引き金となるとはっきり断言することができなかったのです。これはバセドウ病の最初のケースが診断された際に、大きなストレスがどんどん悪化に向かう悪循環を生じることがわかっていたのですから、皮肉なことであります。アイルランド人の医師カレブ・パリーはこの状態を認めた最初の医師ですが、「エリザベス・S.,
21歳はものすごい速さで丘を下っていく車椅子から投げ出された。…そして大変な恐怖を味わった。その時から心臓が速く動悸を打つようになり、様々な神経的影響が出るようになった。約2週間後、彼女は甲状腺が腫れているのに気がついた」と記述しています(7)。 |
研究者や医師にとって、ストレスが甲状腺ホルモンバランスの乱れによって悪化していくのか、あるいはその逆なのかということを確かめるのは難しいことが多いのです。ストレスを受ける前の血液中の甲状腺ホルモンレベルを測定しない限り、甲状腺疾患が始まった時期を特定する方法はありません。 |
そのような困難はありますが、研究者は最近ストレスの多い出来事とバセドウ病の発病との間に明確なつながりがあることを証明することができました。例えば、ある研究で労働条件の変化や就業時間の変化、家族が重病で入院した(その病気が甲状腺疾患で引き起こされることのないファクター)というようなファクターがすべてバセドウ病の発病に関係しているという結論が出ています(8)。もう一つ東京大学で最近新たにバセドウ病と診断された228名の患者に関して行われた研究がありますが、ストレスがバセドウ病の発病率を女性で7.7倍に増加させるという結果が出ました(9)。この研究では、喫煙がバセドウ病になるリスクを増大させることも示されています。離婚や結婚生活がうまくいかないこと、愛するものの死、そして経済的なトラブルなどもバセドウ病の引き金になる可能性があります。 |
研究者が直面する困難は、不活発な甲状腺を引き起こす慢性甲状腺炎ではさらに大きくなります。橋本病はバセドウ病よりさらに多く、女性の10%以上が罹患しています。慢性甲状腺炎に罹っている人の多くに甲状腺の肥大または甲状腺腫がありますが、それ以外の症状はありません。血液中に高レベルの抗甲状腺抗体があることが多く、これは免疫系で作り出されるものです。医師はこの抗体をこの病気のマーカーとして使います(<第14章>参照)。慢性甲状腺炎に罹っている患者の多くで少しばかり甲状腺が不活発になり、疲れやすさや皮膚の乾燥、いつもより寒く感じるというようなことが起こります。慢性甲状腺炎の症状はバセドウ病の症状に比べ、潜行性であるため、真剣にストレスがこの病気の引き金になり、その結果
甲状腺ホルモンバランスの乱れを起こし得るということを証明しようとする研究者はほとんどおりません。 |
それにもかかわらず、内分泌病専門医は甲状腺機能低下症患者で、その症状がストレス(あるいは患者がストレスとして表現するもの)か、うつ病のどちらかと“時期を同じにして”始まるということを日常的に見ております。バセドウ病でもそうですが、医師はストレスまたはうつ病が慢性甲状腺炎の引き金を引き、その結果甲状腺が不活発になるのか、あるいはその逆なのかということに思いを巡らさざるを得ません。慢性甲状腺炎が更年期に急激に増えるのは、ホルモンの変化のためだけなのか、あるいはこの時期にストレスやうつ病が多くなるために起こるのでしょうか。出産後に高い頻度で甲状腺ホルモンバランスの乱れが起こるのは、ホルモンの激しい変化のため免疫系が一次的に弱まるためだけなのか、それとも新生児の面倒を見なければならないストレスとそれに伴ううつ病がこのバランスの乱れを引き起こすのでしょうか。 |
うつ病が免疫系に及ぼす影響は、ストレスによって引き起こされるものと同じです。したがって、自己免疫性甲状腺疾患の引き金を引くことになる連続的な化学的相互作用もうつ病に罹っている間に起こる可能性があります。医師はやっとこの筋書きに注目し始めたところです。最近話題を呼んだ研究では、産後うつ病に罹っている女性はそうでない人に比べ、慢性甲状腺炎になる可能性が高いことが示されています。例えうつ病の女性のホルモンレベルが正常な場合であってもそうです(10)。 |
もう一つ、慢性甲状腺炎と精神的ストレスとの間の関係のきわめて重要な部分を浮き彫りにした研究があり、それによってうつ病で入院した患者は、例え甲状腺ホルモンレベルが正常であっても、一般集団より慢性甲状腺炎になる頻度が高いことが明らかにされました(11)。最近まで、医師は甲状腺機能低下症のせいでうつ病が起こると考え、不活発になった甲状腺を治療することでうつ病が治るだろうと思っておりました。しかし、時には逆もまた真なりということがあります。多くの人で、医師が甲状腺ホルモンバランスの乱れを治療する際に、うつ病−おそらく甲状腺ホルモンバランスの乱れによるというより、それ自体が原因であると思われますが−そのうつ病自体をちゃんと治療し、対処しない限りいつまでもよくならないのです。医師はうつ病のタイプのものが慢性甲状腺炎患者の多くで、引き金を引くものになっているのではないかということをそろそろ疑い始めてもよいのではないでしょうか。これらの患者にはバセドウ病の患者で述べたのと同じ、悪循環のエスカレートの現象が見られます。どちらの病気に罹っていても、その悪循環を断ち切る方法は同じです。甲状腺ホルモンバランスの乱れの正しい診断とストレスやうつ病の問題に対処することです。 |
右に挙げた図は、ストレスと病気の悪循環のエスカレートに寄与すると思われる脳の化学成分と甲状腺との間の複雑な相互作用を図示したものです。 |
【悪循環のエスカレートの生化学的根拠】 |
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