サイロキシン(T4)は甲状腺で作り出される主要な甲状腺ホルモンですが、4個のヨード原子を含む分子量の小さなものです。多くの臓器(脳を含む)の細胞内で、うまく制御されたプロセスにより、サイロキシンからヨードを失わせ、はるかに強力なホルモンであるT3を生じます。脳内では、おそらく他のどの臓器内よりそのプロセスが多く働いていると思われ、T4よりむしろT3の方が細胞機能調節に欠かせないホルモンの形であると思われます。精神機能を適切に保つには、脳内に存在するT3の量が最適な範囲内にとどまっていなければならないため、T4からT3へ転換する重要なプロセスに変動があると、精神への影響は避けられません。 |
甲状腺システムはもっとも厳密かつ精密に制御された体のシステムの一つです。甲状腺ホルモンを脳内に送り込む、あるいは分散する途中でごくわずかな変化が生じると、気分や感情、注意力、および思考に大変な影響を与える可能性があります。T3の送り込みに問題があると、甲状腺が正常に機能している人にうつ病から注意力欠如に至る障害を引き起こすことがあります。神経科学者はT3が脳の機能を実に様々な方法で調節しており、脳内の化学作用が原因で起こる症候群は、甲状腺が正常に機能している人の脳内甲状腺ホルモンレベルが変化したことによって起こる可能性があると言っております。 |
例えば、研究者が最近、アルコール中毒と甲状腺ホルモンバランスの乱れの間につながりがあることを発見しました。ベルリンのフリー大学の研究者であるAndreas
Baumgartnerは、ラットとアルコールを使った実験を行いました(4)。彼は動物の小脳扁桃でT3の不活性化が遅くなることを見出しました。小脳扁桃は感情や感覚知覚、および“報酬記憶”に主要な役割を果たす脳の領域です。そして動物はアルコールに対する行動的依存が大きくなりました。要するに、ラットと同様に、人でも脳のその領域でT4からT3がより多く作り出されれば、アルコール中毒になりやすくなる可能性があるということです。慢性アルコール中毒のため、脳の一部の領域でT3レベルが高くなることがいらつきや攻撃性、発汗、そして震えなどのようなアルコール中毒患者がよく経験する精神的、身体的症状の原因の一端である可能性があります。精神甲状腺学の分野では、もう一つの大きな突破口がありましたが、それは脳内の甲状腺ホルモンバランスの乱れが注意欠陥多動障害(ADHD)を起こすことがあるという発見です。 |
25歳のシンシアは、甲状腺ホルモンレベルが上がり、TSHレベルもわずかに高いということで家庭医から紹介されてきました。 |
彼女は仕事中に集中できず、じっとしていることもできないために、定期的に職を変えておりました。 |
シンシアは子供の頃より注意欠陥多動障害に罹っておりましたが、医師が彼女の注意欠陥と甲状腺を結び付けて考えたことはなかったのです。
彼女が言うには |
私が子供の頃、先生が話している間、私は遮音用天井を眺めており、まったく何も聞いていませんでした。それから、我に帰ると皆が頁をめくっています。私は慌てて追いつこうとしました。クラスでは、先生の言うことを聞こうとしますが、何でわからないのか理解できませんでした。先生が言っていることは理解できるのですが、頭に入らなかったのです。英語の総合試験がありましたが、ちゃんと読めるのに低い評価しかもらえませんでした。 |
今でも、2段落読んで何が書いてあったか覚えていないことがあります。読みながら何か他のことを同時に考えているからです。職場で起きていることや何を夕食に作ろうかなどということに集中できません。車を運転していて、ある地点を通ったことを覚えていないんです。私は自分の回りの車には気付いているんですが、自分の周囲の状況についてはあまり考えていません。同時にものすごく気分が高まるのを感じます。じっと1ヶ所に留まっていることができません。エネルギーが有り余っているのです。ですから立ち上がってうろうろ歩き回るんです。 |
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シンシアの病気は家族性、つまり遺伝的に脳内の甲状腺ホルモンバランスの乱れを引き起こす“甲状腺ホルモン不応症”と呼ばれるものに関係していることが判明しました。これらの患者では、遺伝的欠陥のため、脳や脳下垂体そしてその他の臓器内で甲状腺ホルモンが効率的に働きません(5)。したがって、血液中の甲状腺ホルモンのレベルは高いのですが、実際には脳がホルモン欠乏状態になっており、その結果注意欠陥になると思われます。 |
ADHDのある子供の親族もこの病気に罹るリスクがはるかに高いようです。親族の中には反社会的あるいはうつ病であるとみとめられている人がおり、おそらく脳内でのT3の働きが如何にも悪いことが原因であると思われます。この病気に罹っている成人では不安レベルが高い傾向があり、薬物中毒になることも多いのです。 |
脳下垂体の甲状腺ホルモンに対する感受性低下(血液中の甲状腺ホルモンの量を正しく感じることができない)のため、TSHレベルが高くなり、甲状腺がさらに多くの甲状腺ホルモンを作るようになります。矛盾しているようですが、甲状腺ホルモンレベルは高いのに、これらの患者の多くは不活発な甲状腺機能の症状を呈し、多動性も出ることが非常に多いのです。 |
全身臓器に対する甲状腺ホルモン不応のある患者(全身型甲状腺ホルモン不応症)では、甲状腺ホルモンレベルがノルアドレナリンのような他の化学伝達物質に影響を与えることがあり、それがADHDの犯人の一つだと考えられています。そのような患者では、注意力散漫や落ち着きのなさのような行動的症状がT3治療で改善されることがあります。甲状腺ホルモン治療は単独で、あるいは他の薬と組み合わせて、脳内のノルアドレナリンレベルの調節に使うことができます。T3の化学的類似物質であるトリヨードサイロ(T3)酢酸が、最近この障害の治療に有効であることがわかりました(6)。 |
<第5章>で、化学物質であるノルアドレナリンが脳内で伝達物質として働き、その機能を十分果たすために甲状腺ホルモンが欠かせないということを述べました。実際、脳内でいちばん高いレベルのT3が作られるのは、ノルアドレナリンがいちばん多い領域内です(7)。
脳の領域内での甲状腺ホルモンとノルアドレナリンにこのように顕著なオーバーラップがあることから、体が十分にT3を作り出さない場合や脳内にちょうどよい量のT3が送り込まれない場合に、ノルアドレナリンを効率よく働かせるためにT3の補充が必要である理由の説明になります。 |
うつ病患者の多くで、最初に起こる問題が、甲状腺は適切なレベルの甲状腺ホルモンを作り出しているのに、脳内でのT3レベルが低いか、あるいは異常な分布である可能性があります。この理由はT4からT3への転換率が低いか、T3が脳を効率的に機能させる作用を生じる能力がないためだと思われます。研究では、正常な場合にT4を血液中から脳へ運ぶトランスサイレチンという蛋白質のレベルがうつ病患者では下がっているという結論も出ました(8)。T3を使った治療で、脳のT3を増強するためのこれら送達や転換の問題を回避でき、そのためうつ病が治るのです。 |
これがおそらくアニタに起こったことだと思われます。彼女は私が治療した患者の一人で、最初従来の抗うつ剤に反応しませんでしたが、その後T3を加えたところほとんど奇跡と言ってよい程の反応を見せました。数ヶ月後、彼女のうつ病が治った時に、私は彼女に出していたゾロフトを中止しましたが、T3治療は続けました。彼女が合成T3だけを飲んでいる間、うつ病の再発はありませんでした。うつ病の誰もがそうだとは限りませんが、彼女のケースでは、うつ病の主要原因がおそらく十分な量のT3を作れなかったことにあると思われます。このためにT3それ自体が最終的に長期的な気分の安定をもたらしたのです。 |
脳内化学物質の主な原因がT3より、むしろノルアドレナリンやセロトニンレベルの減少にあるとしても、脳内のT3レベルも複雑な脳内化学物質の相互作用のため、やはり下がります。したがって、ノルアドレナリンまたはセロトニンレベルの低下を伴ううつ病患者には、脳のある領域でのT3の含有量の低下もあるのです。要するに、脳細胞内のノルアドレナリンまたはセロトニンのどちらかのレベルが低いためにうつ病に罹った患者は、血液中の甲状腺ホルモンレベルが正常であっても脳が甲状腺機能低下症になるのです。セロトニン低下、またはアドレナリン低下により起こったうつ病のある程度は、少なくとも部分的な脳細胞内のT3低下が原因である可能性があります。事実、抗うつ剤はある程度、正常なT3レベルに治すことにより、効き目を発揮するのです(9)。 |
例えば、SSRIであるフルオキセチン(プロザック)は脳細胞内でのT4からT3への転換を増加させます。そのため、脳内でT3が十分に利用できるようになります。次にこれがセロトニンを上昇させます。その他のうつ病治療薬(リチウム、カルバマゼピン、およびデシプラミン)、また睡眠剥奪のような薬剤を使わない治療でも、脳内のT3レベルを増加させ、正常なセロトニンレベルにすることによって、ある程度の効果を生み出しているようです。
以下の図にT3が正常な脳内化学作用を維持する上で果たす役割とどのようにしてT3治療が抗うつ剤の効果をフルに発揮させるのかということを示しております。 |
【甲状腺ホルモンと脳内化学作用の調節】 |
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最近の研究では、T4がわずかに高く、TSHレベルが低くなっている患者は抗うつ剤にT3を付け加えると反応しやすくなるということが示唆されております(10)。これらの変化は脳内にいくぶんT3が足りないということと一致しております。<第5章>では、セロトニンの低下によるものであれ、T3産生の減少によるものであれ、うつ病の際にどのように視床下部や脳下垂体が甲状腺を刺激して、もっと甲状腺ホルモンを作らせるようになるかを見てまいりましたが、脳内で使えるT3が減少することが甲状腺システムの活性化を起こすのです。これはT3欠乏を治すようにデザインされているからです。患者がT3を与えられると、うつ病の症状はよくなり、T4は下がり、TSHは元の正常値に上がります。 |
メリッサのケースを考えてみましょう。彼女は数種類の抗うつ剤を試しましたが、どれ一つとして彼女のうつ病を治すことはありませんでした。T3を治療に加えて初めて彼女のうつ病が治ったのです。この抗うつ剤に対する抵抗性は脳内のT3レベルの低下がずっと続いていたせいである可能性が高いのです。
ご主人と離婚した後、彼女はこう言いました。 |
私の精神は鈍くなっていました。私は本当の意味で生活をしていませんでした。私は子供達と山程の経済的心配に対処しておりました。私はうつ病に進んでいきました。時にはベッドから出られないこともありました。カウンセリングを受けましたが、次第にすべてのことをこなすことができなくなり、自殺を図りました。 |
最初にプロザックをもらいましたが、それが数週間の寛解をもたらしてくれました。たくさんの抑制を取り去ってくれました。でも、2ヶ月目、私はうつ病が戻ってきたのに気付き始めました。それから、精神科医は三環性抗鬱剤のアナフラニルが私には効くだろうと考えました。そしてその薬はある意味では非常に快適なものでした。物事はそれほどストレスに満ちたものではなく、性的機能もすべて戻ってきました。前より食べるのが遅くなりました。それから、またうつ病が再発したのです。 |
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メリッサのうつ病はアナフラニルによる治療で、最初の数ヶ月は改善と一時的な治癒を見ましたが、症状が戻ってきました。おそらくT3のレベル低下が続いていたためと思われます。合成T3を5マイクログラム1日3回足して飲むようにしたところ、メリッサのうつ病は消え去りました。 |
「甲状腺ホルモンの錠剤は私にとっては奇跡です」と彼女は言いました。「今ではまったく別人になったようです。甲状腺ホルモン剤を飲み始めて、私にはエネルギーが出始めました。朝起きる時も気分がいいし、自尊心も戻ってきました。前よりよく眠れるようになりました。不安もおさまりました。気分の変動も前よりよくなりました」 |