一般的に、甲状腺機能低下症は軽度うつ病か非定型型あるいは気分変調型の慢性のごく軽いうつ病のどちらかを起こすのですが、これらの軽い、長引くタイプのうつ病のある人は大うつ病に移行する危険性が高いのです。この大うつ病はいちばん重症で、しかも最悪の形のうつ病です。多くのケースで、ごくわずかな甲状腺ホルモンバランスの乱れが最終的に大うつ病を引き起こす悪循環の引き金を引くに十分なのです。甲状腺機能低下症に対し、直ちに対処せず、何年も治療せずに放置されていれば、軽いうつ病がひどい断絶感や自殺願望すら持つようになる大うつ病に進んでいく可能性があります。そのような患者では、甲状腺機能低下症に伴う非常な疲労とうつ病が彼らを消耗させ、さらにうつ病がひどくなっていくという終わりのない悪循環の一部となっています。 |
クリスチーナは34歳の受け付けですが、徐々に悪化するうつ病に罹っていました。彼女は医師が甲状腺機能低下症の診断を下すまでの2年間の苦しみを述べてくれました。「とにかく本当にくたくたに疲れて、職場から家に戻っていました。何もしたくありませんでした。出かけようとか、友人と一緒に過ごそうとかいう気にもなれませんでした。庭仕事や料理、子供の送り迎えなどの毎日の家事をやっとのことでこなしていました。過去2年間というもの、私は9時か9時半には寝ていました。それは子供の方が私より遅くまで起きているという家族のジョークとなっていました」 |
何ヶ月か経つうちに、クリスチーナはまるで世界から切り離されたように感じ、もはや寝ることもできませんでした。彼女は仕事を辞め、ある日痛み止めを大量に飲んで自殺を図りました。「ただ逃げ出したくて、死んでしまいたかったんです」と彼女は言いました。
重症のうつ病になる前に、クリスチーナは軽い、長引くうつ病の状態にありました。しかし、医師が彼女の甲状腺機能低下症の診断ができず、治療しなかったため、彼女は軽いうつ病から本格的な大うつ病に進んでいったのです。彼女が極度の疲労であがいていたのは、より深刻なうつ病に進行しつつある徴候だったのです。 |
大うつ病では、患者は自分の周囲からまったく切り離されたようになり、何が起ころうともまったく無関心になります。この断絶間と疲労は午前中の方がひどいのです。普通は不眠症になり、数時間早く目が覚めますが、もう一度眠るということがなかなかできないという場合もあります。その他の特徴は食欲の喪失、食べることに興味を失う、体重減少、そして物事に集中できないことです。大うつ病に罹っている人は人生は生きていくほどの価値はないという考えを持つことが多く、自分自身を責め、助けを求めるだけの値打ちのない人間だと思います。そして、頻繁に死や自殺のことを考え始めます。大うつ病はどの年齢でも不意に起こりうるもので、何ヶ月も経つうちに徐々に悪化していきます。一部のケースでは、患者が現実から遊離し、幻覚(精神病的特徴を持つうつ病)を見るような場合があります。 |
重症のうつ病患者の甲状腺疾患をスクリーニングした研究者は、その15%以下に不活発な甲状腺があることを見出しました(9)。しかし、特に目を引いたのは、その不活発な甲状腺がひどいものより、むしろ軽いもののの方が多いということでした。 |
研究では、重症のうつ病で入院している患者の20%近くが橋本甲状腺炎に罹っていることも明らかになりました(10)。大うつ病で治療を受けている相当数の患者には、特に女性で軽度の甲状腺機能低下症があるという事実から、脳内のわずかな甲状腺ホルモンの欠乏がその人を大うつ病に陥らせやすくするという事実が裏付けられます。実際、軽度の甲状腺機能低下症があり、現在大うつ病に罹っていない女性でも、以前1回以上うつ病の症状を経験していることが多いのです。 |
軽度の甲状腺機能低下症のある16人の女性の精神病歴と正常な甲状腺機能を持つ15人の女性の精神病歴を比較したある研究では、研究した時点でどちらのグループにも大うつ病に罹っている人は一人もおりませんでした(11)。しかし、軽度の甲状腺機能低下症のある女性では56%の人が今までに少なくとも1回大うつ病の症状発現を見ているのに比べ、正常な甲状腺機能のグループでは20%だけでした。この研究では、軽度の甲状腺機能低下症患者でのうつ病の症状発現のほとんどが過去5年間の間に起こっていることもわかりました。これは軽度の甲状腺機能低下症があると、生活の中でストレスが発生した時に、女性が大うつ病になりやすくなる可能性があることを例証するものです。そのような女性では、軽度の甲状腺機能低下症を治すということは大うつ病発生の予防法として見るべきでしょう。 |
科学者は何年もの間、脳内のほんのわずかな甲状腺ホルモン欠乏(甲状腺の機能がほんのちょっと落ちたことによって起こるように)が大うつ病を悪化させるという事実に興味をそそられてきました。ストレスや気の滅入るような出来事、そして生計が脅かされることなどが認識され、脳内で統合されてそのメッセージが直ちに甲状腺へ伝えられます。そのため、甲状腺はその機能を調節して甲状腺ホルモンの産生を増やすことができるのです(12)。
これらの脅威をもたらす出来事により引き起こされた甲状腺ホルモン産生の増加により、ストレスや気の滅入るような出来事、また生計が脅かされることなどへうまく対処できるよう適切な脳内化学作用が維持されるのです。 |
軽度の甲状腺機能低下症であっても、脳内のセロトニンレベルは下がる傾向があります。脳はセロトニンレベルの低下を脳下垂体に伝えます。このメッセージにより、脳下垂体はもっとたくさんTSHを作るようになります。それにより甲状腺はもっとたくさんの甲状腺ホルモンを作り、放出します。この甲状腺の調節作業がセロトニンレベルを元に戻し、そのため気分がさらにそれ以上落ち込むことがありません。脳内の甲状腺ホルモンは脳細胞のセロトニン産生を増強します(うつ病予防に関する甲状腺ホルモンを役割を図示した添付の図を参照)。 |
【うつ病予防に関する甲状腺ホルモンの役割】 |
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しかし、甲状腺の機能が落ちつつあり、脳内化学作用を正常に戻せないかあるいは必要な甲状腺ホルモンを余分に出せない場合、セロトニンレベルは下がり続け、うつ病がさらにひどくなります。これは機能障害を起こした甲状腺がどのようにしてその人のうつ病に対する初期防御システムをだめにしてしまうのかという説明になります。以前大うつ病の病歴がある患者では、大うつ病にさらに罹りやすくなることが、手術で甲状腺を取った後に甲状腺機能低下症になった人に起こる気分障害を評価する研究で見事に示されました。この研究では、以前大うつ病に罹った患者は甲状腺機能低下症になった時にもっともひどい症状が出ることも示されています(13)。 |
29歳のサラのケースを考えてみましょう。彼女は6ヶ月前に婚約し、ものすごく幸せで、わくわくしていました。そして結婚式の準備にかかったところでした。彼女は大きなデパートの販売部長で、クリスマスシーズンが近づくにつれ、仕事はどんどん増えて圧倒されるほどでした。彼女は午後になると疲れを覚えるようになりました。家に帰るとただ座ってテレビを見て、それから寝るということ以外は何もしたくありませんでした。 |
サラは婚約者とのデートにも興味を失い始めました。結婚式の準備のストレスや仕事の量が増えるにつれ、彼女はすぐにイライラするようになり、発作的に泣き出したり、些細なことで腹を立てるようになりました。次第に、婚約者との関係が悪化し、とうとう結婚式はキャンセルとなってしまいました。サラはその時自分の気持ちを誰にも言いませんでした。これは全部ストレスや仕事の量が多いこと、そして自分がそれらのことすべてに同時に対処できないためだと思っていたのです。 |
数週間が過ぎ、彼女は大うつ病の状態に陥りました。サラの姉がクリスマスに訪ねて来た時、彼女はサラに精神科医に診てもらわなくてはならないと言い張りました。サラはそうすることにしましたが、それは4年前ひどいうつ病になった経験があるのと明らかなうつ病の家族歴があるためでもありました。 |
サラは数種類の抗うつ剤を試しましたが、どれも効き目はないようでした。もはや働くこともできず、食べるのを止めてしまい、体重がうんと減りました。そして仕事を首になりそうなところまできたのです。 |
「記憶に問題がありました。注文やどこに書類を置いたかが覚えられないんです。お客様に折り返し電話をしなかったりしました」と彼女は言いました。このためサラはもっとひどい気持ちになり、自殺願望を持つようになりました。やっと別の精神科医が彼女の甲状腺を検査して、甲状腺機能低下症が見付かりました。抗うつ剤に加え、甲状腺ホルモン治療をした結果、彼女の記憶力は改善され、再び食べるようになりました。彼女の元々の性格である活発さや陽気さが再び現れてきました。彼女のエネルギーレベルは増加し、仕事の成績もよくなり、また気分のむらや怒りも消えました。 |
サラのケースでは、仕事や結婚に関連したストレスとうつ病になりやすい遺伝的素因が最初にうつ病の引き金を引いた可能性があります。しかし、彼女の甲状腺機能低下症が彼女を大うつ病に移行させやすくしたのです。クリスマスシーズンと結婚式が近づくにつれてストレスがつのってくる間、セロトニンレベルがこれ以上落ちないようにするにはほんのちょっと余分にT3が脳には必要だったのですが、彼女の甲状腺はうまく対処できず、その結果生じた複合的な脳内化学物質のバランスの乱れが大うつ病につながったのです。 |
甲状腺ホルモンバランスの乱れの診断と治療が大うつ病に陥るのを防ぐ役に立つと思われます。しかし、サラのケースのようにすでにうつ病に罹っている場合、甲状腺ホルモンバランスの乱れを診断して、治療してもらわなければなりません。甲状腺ホルモンバランスの乱れを治さなければ、そのうつ病に対しては従来の抗うつ剤では効き目がありません。研究では大うつ病に罹っており、抗うつ剤に反応しない患者の52%に甲状腺機能低下症があることが示されています(14)。抗うつ剤に加え、医師が甲状腺ホルモン治療を行うと、うつ病が治ってしまうことがよくあります。また、慢性の軽いうつ病に罹っている人で、抗うつ剤に反応しない人の相当数に甲状腺機能低下症があります。それでも、抗うつ剤で治療を受けているうつ病患者の夥しい報告を載せた本が最近出版されたのですが、その本の中では誰一人として甲状腺の検査を受けていないと言っており、またその多くが抗うつ剤に完全に反応していないのです(15)。 |
うつ病に罹っているか、あるいは最近うつ病を経験したのであれば、甲状腺ホルモンバランスの乱れに関する検査をしてもらうべきです。特に他に説明できないような症状があればなおさらです。TSH測定は医師が甲状腺機能を見るために最初に行うべき検査です。時に、TSHレベルが正常な場合で、特に正常範囲の上限にある場合、甲状腺機能を正確に評価するためにサイロトロピン−放出ホルモン刺激検査が必要になります(サイロトロピン−放出ホルモン(TRH)は視床下部で作られ、通常は脳下垂体のTSH分泌を制御しています。この検査やその他の甲状腺検査について、詳しいことは<第14章>をご覧ください)。 |
TRH刺激検査は静脈からTRHを注射して、血液中のTSHを15分毎に1時間測定するものです。TRHに反応して、TSHが過度に増加するようであれば、TSHレベルの基底値は正常であったとしても軽度の甲状腺機能低下症があることを示すものです。うつ病と甲状腺機能低下症の両方に罹っている患者の約半数で、甲状腺機能低下症がTRH検査で突き止められます<注釈:現在のTSHは高感度でTRH試験をしなくても、甲状腺機能の状態は分かります>(16)。 |